「子供ばんど」の衝撃——エレキ少年が念願のデビューをつかみ、米国に進出するまで

 ロックバンド「子供ばんど」で活躍し、五社英雄監督作の映画出演や、マニアックなクイズ番組「カルトQ」の司会者としても人気を博したうじきつよし(68)。20年以上の休止期間を経て2011年に復活した子供ばんどは、回数こそ少ないながらも毎年ライブ活動を続け、10月24日には東京・恵比寿 ザ・ガーデン・ホール、11月30日には神戸チキンジョージで、これまた活動を再開したロックバンド「EARTHSHAKER」との対バンライブを予定している。 (全2回の第1回)  *** 【写真】五社英雄監督、リック・デリンジャーとのツーショットも 貴重写真で振り返る「うじきつよし」の歩み 小学校低学年時からエレキギターにハマる  ザ・ベンチャーズが日本にエレキブームを巻き起こしたとされる1965年。当時のうじきは小学校低学年だった。 うじきつよし・子供ばんどのメンバーと(右から2人目がうじき) 「3歳上の姉がいて、8つ上のいとこのお兄ちゃんもいた影響でしょうね。カッコよかったし、アンプから出る音に衝撃を受けました。地元の東京・祖師谷団地では、年上のきょうだいのいる仲間が楽器を借りて、小6になるともうバンドをやってました。僕はいとこからグレコのリッケンバッカーモデルのエレキをもらって弾いていましたね。その前も姉のクラシックギターを弾いてましたけど、それよりずいぶん弾きやすかったのを覚えています」  最初にカバーしたのは、ザ・タイガースの「花の首飾り」だった。ベンチャーズでは「ブルドッグ」などもいとこに習った。 「中学生になった頃、少し上の世代でやたらとデカい音で演奏するバンドがいて。曲はジミ・ヘンドリックスの『パープル・ヘイズ(紫のけむり)』だったんですが、今までの音楽と違うぞ、と。それからレッド・ツェッペリンやディープ・パープルを聴くようになっていったんです。エレキギターがメインとなる音楽の創成期から、オンタイムで一緒に育っていった感じで、多感なハイティーンの頃に大きく影響を受けました」 15歳で「子供ばんど」名乗るもどん底味わう  東京都立大附属高校に入学後、2年生からはバンド一辺倒の生活になった。 「学校に行っても授業に出ず、都立大との間にあった自治会館でエレキの練習をしてました。おっかない体育の先生が『音デカい、うるせえ!』って。怒るのそこかよ、という感じでした(苦笑)」  それより前の15歳の時から4人グループで「子供ばんど」を名乗っていた。ただメンバーの1人は「大学の先生になる」と離脱し、中学から一緒にやっていたドラムとベースの2人も、高校生で引き抜かれてプロの道へ。うじき一人が取り残された。 「うちも親はちゃんと就職しろというし、高校の最後から2年間ぐらいはどん底の時期でしたね」  だがしばらくして、ギターの谷平こういち、ドラムスの山戸ゆうと出会う。19歳になっていたうじきはギターとレコード、布団を持って家を出て、埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)の谷平のもとへ転がり込んだ。谷平は実家の塗装業を継ぎながらバンド活動をしていた。谷平の父からは「好きなだけバンドやっていいから好きなだけ働け」と言われ、3食付きの好待遇の塗装業のアルバイトをしながら、ライブ出演を続けていた。 ヤマハのコンテストでグランプリ獲得  市内のライブハウス「のらろば」では、同じ埼玉県のバンド「アレレのレ」と一緒になることが多く、互いに「お前らには勝った」などと話していたこともあった——のちの「スターダスト☆レビュー」である。その後、東京・渋谷のライブハウス「屋根裏」に出演するなど実績を積んで認知度も上がり、1979年にヤマハのアマチュアバンドコンテスト「EastWest」に出場。見事、シニア部門グランプリを獲得した。 「コンテストで目に留まれば、デビューへの道が開けると思ったんですね。ただ一緒に出て優秀グループ賞に選ばれた『アナーキー』はレコード会社が決まってデビューしたんですが、子供ばんどはなかなか決まらなくて…」  そんな頃、東京の「原宿クロコダイル」でのライブ出演時に、高級そうなカメラを持ち、「いいねえ」と言いながら写真を撮りまくっている人がいた。 「ロック好きのカメラマンかと思っていたら、宇崎竜童さんだったと後で分かったんです。リーゼントでもなかったから全然気付かなくて(苦笑)。宇崎さんから、デビューについて、会って話したいと連絡をもらいました」  もともと松崎しげるのマネージャーを務め、プロダクション業務にも長けていた宇崎は「バンドは自分たちでコントロールできるように自分たちのオフィスを持ったほうがいい」とノウハウを伝授。音楽出版社が決まり、子供ばんどはキャニオン・レコードからアルバム「WE LOVE 子供ばんど」でデビューした。1980年10月のことである。 「当時はレコードを出すのがプロの証だと思っていましたから、プロとしてコンスタントにリリースするのを守るべきだと考えていました。なので、デビュー翌年には2枚のアルバムも出しました」 米国に進出の夢はかなったが……  バンドとしては着実にステップアップし、ライブで全国を回った。そして1983年には「米国で勝負したい」との思いが抑えきれなくなっていた。 「大好きだったリック・デリンジャー(米ギタリスト)が来日した際、関係者が子供ばんどのライブに連れてきてくれたんです。しかもアンコールのときに、一緒に来たトム・ピーターソン(「チープ・トリック」のベーシスト)と一緒にステージに上がって、『ロックンロール・フーチー・クー』を演奏してくれたんです。僕らもその曲をカバーしてたんで、夢のような出来事でしたね」  米国で勝負するため、デリンジャーにプロデュースを頼みたい旨を告げると、快諾。渡米した際にはニューヨークにあった自宅のプライベートスタジオに招かれた。キャニオン・レコードには米国の支所がなかったため、宇崎の伝手でエピックソニーに移籍し、デリンジャープロデュースのアルバム「HEART BREAK KIDS」(1983年)を発売。以後、数年間は日本と米国・カナダを往復しながらの活動が続いた。 ただ、国境を股に掛けた活動を続けているうち、家族との生活を重視せざるを得ないメンバーも出て、次第に足並みがそろわなくなった。それでも意地のようにライブ活動を続けていた。  ちなみにこの頃、1984年デビューの吉川晃司の初期ツアーをギタリストとして支えたのもうじきだった。2025年8月の吉川の還暦ライブでは、アンコールでうじきが登場。息の合ったユニゾンギターを響かせ、会場を沸かせた。 「がっつり一緒にやったのは40年ぶりだったですかね。あいつのデビューツアーは47都道府県全部回ったんですよ。当時は超アイドルで、水の中に飛び込んだりもしてました。ここまでの道のりを見てきて、年は8つ下ですが、友達でいてくれて光栄ですよね」  ***  小学生時からバンド一筋でやってきたうじき。第2回【役者、「カルトQ」でお茶の間へ “永久凍土解凍”でステージに立ち続ける「うじきつよし」の音楽への帰り道】では、バンドの活動休止やその直後から進んだ俳優や司会の道、さらに子供ばんど復活に至る思いなどを語っている。 デイリー新潮編集部

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