またひとり、イタリアン・スポーツカー・デザインのレジェンドを失ってしまった。エルコーレ・スパーダが、2025年8月3日、88歳で鬼籍に入ってしまったのである。彼はイタリアのみならずヨーロッパの複数のブランドのスタイリング開発に携わり、数多くの傑作を生みだしている。それだけではない。高いエンジニアリング的な素養を持ち、スポーツカーのエアロダイナミクスの発展にも大きな結果を残した。そんなスパーダは2003年にFIVAヘリテージ・ホール・オブ・フェイムに選出されたが、その業績はより高く評価すべきと自動車業界人は口をそろえる。 【画像】エルコーレ・スパーダが手がけた名車・アルファロメオSZやTZ(写真19点) スパーダは1937年7月26日にミラノで生まれる。この年代はまさにカーデザイナーの”当たり年”(失礼)で、翌年はマルチェッロ・ガンディーニとジョルジェット・ジウジアーロが生まれている。1956年に学位取得後、1960年にザガートに入社した。彼の在籍した10年間は、まさにザガートの黄金期であった。OSCA 1600GTSザガート、アストン・マーティン DB4GTザガート、アルファロメオTZ1、TZ2、2600SZ、ジュリエッタSZ、ランチア・フラミニア・スーパースポーツ3C、フルビア・スポルト・ザガートなど枚挙にいとまがない。ブランドのアイデンティティを抽出し、そこにザガートとしての個性を加えるという的確な解釈によるスタイリング開発は、まさにザガートが進むべき方向性を築いたと言える。 彼のキャリアの中で何よりも焦点を当てるべきモデルはアルファロメオSZであろう。当時、ツーリングカーレースで競い合っていたロータス・エリートに対抗するため、エリオ・ザガートとスパーダは、空力学に注目し、幾度にも渡る実車テストの結果、リアを切り詰めたコーダ・トロンガ・スタイルのリアを完成させた。1961年6月に発表された”改良モデルは、約20km/hマキシマムスピードを向上させたと言う。2016年のコンコルソ・デレガンツァ・ヴィラデステでは、自ら助手席でストップウォッチを持ってアウトストラーダA1を疾走し、最高速テストをしたというエピソードをスパーダより聞かせてもらった。そう、そこには、まさにそのテストを行ったプロトタイプそのものが、出展され、スパーダが助手席に乗ってパレードランを走ったのだった。 1970年、彼はトリノのフォード・ヨーロッパデザインセンターに移り、タウナス、グラナダ、カプリ、フィエスタなどのスタイリング開発を行い、1973年にはフォード傘下のギアに移籍した。その後はアウディ、BMWにおいて短い期間、在籍したが、そこでは大きな成果を残した。チーフデザイナーとして、ラグジュアリー・サルーンのリファレンスともなったBMW 7シリーズ(E32)とBMW 5シリーズ(E34)を仕上げたのだ。 1983年にスパーダはトリノへ戻り、I.DE.Aのデザインディレクターとなった。フィアット・ティーポ(1988年)、フィアット・テンプラ、アルファロメオ155(1992年)、ランチア・デルタ(1993年)などフィアット・グループの複雑な力学と、プラットフォームの共用という厳しい制約の中でも、的確に求められたミッションをこなしていった。 1993年よりフリーランスとして、古巣のザガートをはじめとして多くのデザインコンサルティングを行った。中でも私たち日本人にとってサプライズであったのはO.S.C.A.ドロモス・プロジェクトであった。 1999年新春に発表されたのは、マセラティ兄弟がオルシ家から離れたO.S.C.A.を復刻させるというセンセーショナルなプロジェクトであった。ザガートと日産の共同事業によるオーテック・ザガート・ステルヴィオを手掛けた日本人実業家が神奈川の葉山にベースを置き、プロジェクトをスタートさせた。同時に、こちらも休眠していたカロッツエリア・トゥーリングの商標も獲得した。つまりスパーダのペンによるザガートのスタイリング開発と、トゥーリングによるボディワークというビジネス・ストラクチャが描かれたのだ。パワートレインはスバル・テクニカインターナショナルが供給し、2.4L水平対向4気筒エンジンがミッドマウントされると発表された。イタリアのヘリテイジブランドの2シーター・スポーツカーが手ごろなプライスでリリースされるというニュースに、大きな反響があったが、実業家失踪のニュースと共にプロジェクトはまもなく立ち消えとなった。スパーダ自身もこの出来事を深く悲しんでおり、何とか件の日本人実業家とコンタクトできないか、何回となく尋ねられたが、それは叶わなかった。 2004年には息子のパオロと共にスパーダ・コンセプトと称す自らの会社を興し、コルベットをベースとする少量生産スポーツカープロジェクトを発表した。アルファロメオTZへのオマージュたるアグレッシブなスタイリングが特徴であったが、近年、新しいニュースはなく、そんな中で、今回の訃報を聞くこととなってしまった。 これだけの実績をあげた人物であるにも関わらず、彼は表舞台に立つ事を好まなかったこともあり、カーデザイナー史においての存在感はあまりに低い。後年、多くの時間を共にしたASI副会長ガウタム・センは、”暖かいマインドを持ち、誰にでも親切に接して、皆から愛された稀有な天才であった”と彼の死去を悲しんだ。これだけの実績を残したにも関わらすスパーダに関する研究は少ないのが残念だ。謹んで氏の冥福をお祈りしたい。 文:越湖信一 写真:Gautam Sen Stola family、越湖信一、BMW Classic Words: Shinichi EKKO Photography: Gautam Sen Stola family, Shinichi Ekko, BMW Classic