「状況芳しくなく、腹は決まっています」 「これが最後の通信になるかもしれません」 「足の悪い者や病人は濁流の中に呑まれて行く」 最前線、爆弾投下、連絡員の死、検閲……何が写され、何が写されなかったのか? 新刊『戦争特派員は見た——知られざる日本軍の現実』では、50点以上の秘蔵写真から兵士からは見えなかった〈もうひとつの戦場〉の実態に迫る。 (本記事は、貴志俊彦『戦争特派員は見た——知られざる日本軍の現実』の一部を抜粋・編集しています。秘蔵写真の数々は書籍でお楽しみいただけます) 奥村社長、南方派遣員激励へ 陸海軍が命じた南方での新聞事業の委託経営は、軍政の浸透を目的としていた。これに呼応すべく、毎日新聞社本社も行動をおこす(「毎日社報」1943年2月28日)。 1943年1月5日奥村信太郎社長は、国際派記者といわれた高田元三郎編集総長らと共に、社機「明星号」に乗って、例の如く福岡の雁ノ巣飛行場を出発した。途中、上海では陸海軍当局や上海支局、台北では台湾総督府、台北支局に立ち寄り、9日にマニラ近郊のニコリス飛行場に到着した。 マニラ到着後、ただちに軍司令官田中静壱、軍政部最高顧問村田省蔵、マニラ支局などを訪問している。その夜には、マニラ支局の支局員、従軍から帰還途中の社員、マニラ新聞社の社員、計50人ほどの招待宴を開いた。 奥村社長は、10日から4日間、マニラ新聞社及び第1〜第3印刷工場を視察に回った後、マニラの銀座といわれたエスコルタ街、カヴィテなど市内や近郊を見物している。 また、短い期間とはいえ、マニラ・ホテルで、フィリピン人社員、軍政当局者、在留邦人の招待宴、フィリピン軍代表、フィリピン行政委員会のホルヘ・ヴァルガス委員長や各部長官・次官などを招いて、カクテル・パーティーを開き、新聞の発行への協力や社員への支援などを依頼した。 一方、ヴァルガス委員長も、マラカニアン宮殿に奥村社長一行を招待している。当時は、ヴァルガスが、政党を廃止し、翼賛団体である「新比島奉仕団」を立ち上げ、その総裁に就任していたときであった。このとき、奥村社長はヴァルガスに人形浄瑠璃の人形を贈っている(写真は書籍『戦争特派員は見た』でご覧ください)。写真に撮られた様子から見ると、交流は成功したように思える。 1月18日から奥村社長一行はダバオ、セレベス島のメナド、マカッサルを巡回、27日にジャカルタ、2月1日に昭南、4日にスマトラのメダン、5日にバンコクを訪問する。バンコクでは、駐屯軍司令部を訪問して陸軍中将中村明人司令官と面会した際にも、同じく浄瑠璃人形を贈っている。その後、王宮に隣接する寺院ワットプラケオを見学し、石井康代理大使による招待宴にも参加している。 7日以降、サイゴン、海南島の海口、台湾の高雄、そして最後の訪問先である上海を訪れ、16日に羽田空港に帰着、19日に帰社した。 南方への慰問や挨拶を終えた奥村社長は、2ヵ月後の1943年4月21日から、今度は朝鮮、満洲、中国を巡回している。5月6日には、南京で国民政府主席汪兆銘と会談するなどして4日後に東京に帰着した。まさに八面六臂の活動であった。 つづく「マラリアに感染する者はいなかった…戦時中に新聞社会長はどのように動いていたのか」では、新聞社会長の南方での行動を追っていく。 本記事の引用元『戦争特派員は見た——知られざる日本軍の現実』では、日中戦争から太平洋戦争、その後まで、特派員の人生や仕事からその実態を描いている。書籍には50点以上の秘蔵写真を収録していますので、ぜひご覧ください。 貴志俊彦(きし としひこ) 一九五九年生まれ。広島大学大学院文学研究科東洋史学専攻博士課程後期単位取得満期退学。島根県立大学教授、神奈川大学教授、京都大学教授などを経て、現在はノートルダム清心女子大学国際文化学部嘱託教授。京都大学名誉教授。専門はアジア史、東アジア地域研究、メディア・表象文化研究。主な著書に『イギリス連邦占領軍と岡山』(日本文教出版株式会社)、『帝国日本のプロパガンダ』(中央公論新社)、『アジア太平洋戦争と収容所』(国際書院)、『日中間海底ケーブルの戦後史』『満洲国のビジュアル・メディア』(以上、吉川弘文館)、『東アジア流行歌アワー』(岩波書店)など、多数の研究成果がある。最新刊『戦争特派員は見た』(講談社現代新書)。 【つづきを読む】マラリアに感染する者はいなかった…戦時中に新聞社会長はどのように動いていたのか