放送から1週間が経っても、『愛の、がっこう。』(フジテレビ系)第6話の熱がまだ冷めない。木村文乃主演、Snow Manのラウールが共演する本作は全10話と発表されており、物語も折り返し地点だ。そんななか2人だけの幸せな時間がわずか42分……(第6話全体尺45分のうち、42分が2人だけのシーンだった)。幸せな時間は短ければ短いほど、大切な宝物のように感じる。そんなふうに本作、特に第6話が水飛沫をあげる波打ち際のようにキラキラして見えるのは、これまでのエピソードの中に散りばめられていた演出が反復して登場し、それによって意味が変わってくる仕掛けが施されているからかもしれない。まさに『昼顔』(フジテレビ系)以来となる脚本家・井上由美子と演出家・西谷弘タッグの底力。そこで、今夜放送の第7話を前に、第6話で描かれたものの意味をこれまでの神演出と共に振り返りながら、今後の愛美とカヲルの行方を考えていきたい。 【写真】『愛の、がっこう。』髪をおろした愛美がかわいい 切ない改札シーンも ■『愛の、がっこう。』の恐ろしさ 兎にも角にも本作の比類のないキャラクター設定には、最初から心を掴まれてならない。女子高の現国教師である35歳の主人公・小川愛美(木村文乃)は、一見おとなしそうな風貌で、いまだに親から“寵愛”を受ける箱入り娘と思いきや……過去には結婚の約束をしていた交際相手に好きな人ができて振られ、ストーカーとなった末に東京湾に身投げして自殺未遂をした過去を持つ。家まで押しかけ、ポストをのぞいたり、そこにプレゼントを押し込み続けたり、何十回も留守電を残したり、家のインターフォンを押し続けて警察に連行されたり……なかなかにえぐみのあるキャラクターなのだ。 一方、彼女と出会う23歳のカヲルは一見チャラチャラしたホストだが、幼少期から整わない家庭環境が起因して学習障害(発達性ディスレクシア)を抱えている。読み書きも、愛も与えられたことのない男だ。そして愛美はそんな彼との出会いを通じて「初めて教えることの楽しさ」を感じると同時に、惹(ひ)き込まれていく。『昼顔』シリーズのタッグによって「ああもう怖い!」と思いながら、まんまと物語やキャラクターの同士の引力にこちらも吸い込まれてしまう、これが本作のもつ底知れない恐ろしさなのだ。 ■第6話の神演出 切なすぎた“お別れ遠足” さて、第1話で「どうして自分はこうも男の人とうまく付き合えないのか」と心の中で悩んでいた愛美。しかし、そんな彼女が本作において初めて好きな人とデートをする時の装いで登場する第6話。普段結いている女性が髪をほどいているだけで、これほどまでに印象が変わるのかと男子高校生の気持ちを理解してしまいそうな気になりつつ、カヲルも負けじと登場シーンからかわいらしく、2人は電車内で女子高生にいじられる始末だ。 2人で神社にお参りをした時に、お手本を見ずに自分の名前を漢字で書けるようなっていたカヲル。思い起こせば、第1話のラストで愛美がホストの彼を信じると言った背景に「彼の本名を知ったから」という理由があった。名前とはその人そのものであり、彼女が念書をもらった際にお手本として「鷹森大雅」と書かれた紙を彼に渡している。つまり、あの時彼女がやったことは、カヲルに本当の自分を取り戻させる行為だったのだ。 カヲルはその話のラストで、ホストとして愛美と接するために紙をグシャリと握りつぶして再び本当の自分を捨てた。しかし、その後の愛美の粘り強さと根性の甲斐あって、鷹森大雅という自我を大切に持てるようになる。何度も何度も、その字をなぞりながら。そして今、愛美の助けがなくても彼は自分を大切にすることができている。朝方まで姫と飲んでいても、業務として割り切って本当に自分が会いたい人、好きな人に会うために早起きして出かけることができる人間になった。それがあの絵馬のシーンに凝縮されているのだ。 まるでお互いが失っていた時間を取り戻すかのように過ごす2人。青空教室や、久々に間接キスのことまで意識してしまう異性とのデート。本当は見たかったのに、そもそも見られないことを知って落胆した花火大会。いつか花火大会が再開されると信じて、また来る口実を作るためにお店に忘れていった日傘。パチスロの騒音の中で漏れ叫ぶ、本音。本当は少し子どもっぽい愛美の遊びに付き合って、後ろから捕まえてくれるカヲルの大きな体の安心感。“お別れの遠足”にしてはあまりにも瑞々しく、その時間が切ない。 その切なさが極まったのが、あの砂浜のシーンだ。「俺汚れているから、キスしない」と言われ、自分からキスをしようとした愛美と、理性で一度はやんわり断るも欲望に負けて自分から唇を奪いにいったカヲル。そのキスシーンも素晴らしいが、さらに注目したいのはその場所と、砂浜で書いた文字である。 ■砂浜の文字の行方 海は、愛美にとって一度死を選んだ場所だった。第1話の冒頭で彼女が行っていた授業に登場した、石川啄木の短歌。「大といふ字を百あまり砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり」、つまり「大という字を100回砂に書いたら、死ぬことがバカらしくなって帰ってきた」という歌。この砂に字を書く、という動作がカヲルの“遠足の作文”を一緒に書く動作に重なり、シーンに繋がっていく。そう考えると今回、愛美が海に行って生きて帰って来られたのは間違いなくカヲルの存在があったからで、一度は死のうと思った場所が5年ぶりに愛した人と思いを交わした場所になったのである。 一方、カヲルにとっても海辺の砂浜は意味のある場所だった。昔親に連れて来られた時、夕方5時までそこに放置されていたカヲル。波打ち際を見ていれば時間が分かると彼は言ったが、それなら砂浜に文字を書いても、それがもうすぐに波にかき消されることが分かっていたはず。この世に形が残らない方法で、愛美にメッセージを書いたのも、改札で自分だけが振り返ったことの痛みを胸に感じながら、走って追いかけられなかったのも、カヲルなりの優しさだ。 第5話ではカヲルが愛美の務める学校まで会いに行った場面で、学園の高い柵に手をかけ「ねえ、ここよじのぼってそっち行ったらいい?」というセリフがある。これも愛美を自分の側に来させないようにと、自ら住む世界を分とうとするカヲルの気持ちの表れだった。前回は柵の向こうで、今回は改札で、泣きそうな顔をするカヲルを演じるラウールの演技にこちらの涙も誘われる。しかし、カヲルにとっても最悪な場所だった砂浜を2人の力で楽しいものにした。その事実だけでも、かけがえのない宝なのだ。 そして砂浜に書かれた「先生、げんきでな。」という文言がタイトルの『愛の、がっこう。』と重なるのも見逃せない。“続ける”意味の読点、“終わらせる”意味の句点。その意味を考えると、がっこう(生徒と教師)の関係性は終わりを迎えるが、2人の愛は続く、とも読み取れるのではないだろうか。そうであってほしい。 ■『高校教師』(1993)の“死のイメージ”が匂ってくる しかし、第6話が1993年放送のドラマ『高校教師』(TBS系)を彷彿とさせる点で、少し不穏さもある2人の未来。野島伸司が脚本を手がけた同作の第5話「衝撃の一夜」では真田広之演じる主人公の教師が、桜井幸子演じるヒロインの女子生徒と北鎌倉に行き、2人の時間を過ごす。砂浜に文字を書くところもそうなのだが、有名な“死のイメージ”が香る『高校教師』のラストシーン(桜井幸子の肩に、真田広之が頭を乗せて寝るシーン)が、電車で愛美にラウールがもたれかかって寝るシーンとよく似ているのが怖いのだ。2人の今後の行方はどうなっていくのか。この死の匂いが、杞憂であってほしいと祈るばかりである。 (文:アナイス/ANAIS) 木曜劇場『愛の、がっこう。』は、フジテレビ系にて毎週木曜22時放送。