ミッション系大学と皇室 クリスマス・シーズンが迫り、街にジングルベルが流れクリスマス・カラーに染まっていく中、天皇皇后両陛下の長女・愛子さまは23歳のお誕生日を迎えようとしている。 【写真特集】愛子さまの歩みを写真で振り返る 天皇陛下は神道の祭司だが、ご一家も一般家庭と変わりなく聖夜を家族で過ごすのを楽しみにされているようだ。ご一家そろってのクリスマスと言えば、2007(平成19)年12月に夜景の名所でもある商業施設「恵比寿ガーデンプレイス」で鮮やかに輝くイルミネーションを観賞に訪れた今上天皇(当時皇太子)と雅子皇后(同皇太子妃)、愛子さまが満面の笑顔で仲良く歓談されていた姿が懐かしい。愛子さまの愛らしい赤いコートも印象的だった。 愛子さまは12月1日で23歳 雅子皇后が「浩宮さま」時代の陛下とのご結婚を承諾されたのは、1992(同4)年12月12日。その直後に雅子皇后は皇室入りの一大決心と、両親への感謝をクリスマス・カードにこう綴られた。 「新しい人生の一歩を踏み出す決心をすることができました。(中略)温かい家庭でずっと幸せに育てて頂いて本当に有難う」 ご婚約内定の明るいニュースが全国で一斉に流れたのは、年が明けた1月6日のことだった。 雅子皇后も美智子上皇后もミッション系のキリスト教会を併設した学校で学んだ。雅子皇后の通った田園調布雙葉学園はカトリックの女子校。1972(昭和47)年に田園調布雙葉小の3年生に編入されている。75(同50)年に田園調布雙葉中、78(同53)年には田園調布雙葉高に進学。翌79(同54)年7月から、外交官の父親が在米日本大使館公使に就任したため、米国のボストンに一家で移住した。 一方、美智子上皇后は姉妹校の雙葉学園に通われた。雙葉小附属幼稚園を経て、41(同16)年に雙葉小に入学。44(同19)年には、疎開をされている。終戦直後の47(同22)年、雙葉小を卒業し、聖心女子学院中等科へ入学する。聖心女子学院もミッション系で「キリスト教の価値観に基づいて愛と希望をもって生きる姿勢を育てる」ことを教育方針に掲げる。53(同28)年に聖心女子学院高等科を卒業。57(同32)年、聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現英語英文学科英語英文学専攻)を卒業している。 レアだった母子の映像 美智子上皇后は史上初の民間出身の皇太子妃となったことで、旧華族関係者や学習院OGら守旧派からバッシングを受けたが、それは後述する。 雅子皇后も同様に民間から皇太子妃となり、美智子上皇后とは時代背景が異なるものの、86(同61)年に施行された雇用機会均等法で女性の社会進出が注目を浴びる中、「外交官の卵」というキャリアを捨てて皇室入り。なかなかお子さまに恵まれなかったことと、精力的に国際親善のため外国訪問に取り組んだことをリンクさせて「外国にばかり行きたがってお世継ぎづくりを軽視している」と心ないバッシングにさらされた。 そうしたことも影響し、2003(平成15)年12月から帯状疱疹と適応障害で長期療養に入り、04(同16)年5月、天皇陛下が皇太子としてスペインなど欧州3カ国歴訪を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあった」と、いわゆる“人格否定発言”を行った。 前述した「恵比寿ガーデンプレイス」訪問直前の07年8月には、雅子皇后がお世継ぎ懐妊を強要されて人権を失ったとして、英国生まれのフリージャーナリストのベン・ヒルズが雅子皇后の伝記と称して単行本『プリンセス・マサコ』を出版している。 こうした状況下で雅子皇后の公務欠席が続き、まだ幼かった愛子さまを連れたプライベートの映像もレア(希少)となっていたため、ご一家そろっての恵比寿訪問には注目が集まった。報道陣の殺到も予想されたため、宮内庁は「報道関係者と分からないよう商業施設の一般客にまぎれるかたちで取材して欲しい」とマスメディアを規制。「いき過ぎた報道統制だ」との反発を招いたというエピソードも残る。 ただ平成から令和に時代は移り、雅子皇后や成人に達し大人の仲間入りをした愛子さまの姿を国民が目にする機会も増えている。 万国共通の華やかなイベントとして定着しているクリスマスは、日本でも多くのカップルや家族、気の合う仲間たちが毎年、心待ちにしている一大行事であることは言うまでもなく、今年も天皇ご一家がクリスマス・キャンドルを和やかに囲むようなシーンを国民が目にする機会に恵まれるかもしれない。 昭和天皇の叱責は嘘 ところでクリスマスは皇室にどう定着していったのだろうか。そもそも天皇ファミリーのクリスマス事情をひも解くと、昭和天皇の生涯を宮内庁書陵部がまとめた唯一の公式記録集『昭和天皇実録』の記述に目がいく。 東京書籍から出版されている実録のページをめくると、昭和天皇(迪宮さま)が6歳だった1907(明治40)年12月18日の日付で「皇太子(大正天皇)・同妃よりクリスマスの靴下に入った玩具を賜わる」と記されており、皇室でもこの頃すでに、クリスマス・プレゼントを贈る西洋文化を取り入れ始めていた事実が分かる。 織田信長が生きた戦国時代に、スペイン人宣教師のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教は、江戸時代の鎖国を経て明治時代に再び流入。一般大衆に自由主義が広まった大正デモクラシーを追い風に国内で定着していった。キリスト教の主要なイベントとしてイエス・キリストの誕生日を祝うクリスマスも同時に定着し、欧米文化を好んだ大正天皇が天皇家でもファミリーイベントに取り入れたというのが通説だ。 さらに偶然にも、1926(大正15)年12月25日に大正天皇が崩御したため、クリスマス当日が「大正天皇祭」という国民の祝日になったことから、サンタクロースや賛美歌、クリスマス・ツリーなどクリスマスの風習がさらに普及するきっかけとなったのである。 太平洋戦争後、宮中でも国際親善の席で背広などの洋服といった西洋文化が推奨され、海外から招いた客は、燕尾服にローブデコルテの洋装と洋食(フレンチ)の宮中晩餐会で公式にもてなすようになる。その一方で明治維新後に国が推し進めた国教としての神道の信仰は戦後の皇室周辺に根強く残り、神道とキリスト教の摩擦を生んだ。その摩擦に、さまざまなバッシングにさらされていた美智子上皇后が巻き込まれたという有名な話がある。 上皇陛下の弟の常陸宮さまは、侍従だった村井長正がキリシタンだったことからキリスト教に理解があるとされる。このため皇室に嫁いでおよそ5年が経った美智子上皇后について当時、常陸宮さまが昭和天皇に「聖書の話がしやすい」とおっしゃったことで昭和天皇が激怒。美智子上皇后を「二度と聖書の話はしないように」と叱りつけ、美智子上皇后が土下座して謝った——という噂話がある。 美智子上皇后は両親もクリスチャン。美智子上皇后を皇太子妃候補に選定した上皇陛下の教育担当責任者で、元慶應義塾塾長の小泉信三も熱心なクリスチャンだったため、この話は事実であるかのように語り継がれていた。 この噂話は真っ赤な嘘だと後年になって指摘がなされたが、「皇室でキリスト教はタブー」という見方がしばらく定説となっていた。だが、常陸宮さまは1963(昭和40)年にデンマークや仏、伊などを歴訪した際、バチカン市国に立ち寄ってローマ法王と面会。タブー説は誤りだと証明された。 雑音もなくなり皇族方も心待ちにするクリスマスは、もうすぐだ。 朝霞保人(あさか・やすひと) 皇室ジャーナリスト。主に紙媒体でロイヤルファミリーの記事などを執筆する。 デイリー新潮編集部