「てるてるワイド」「やる気MANMAN」で打倒・ニッポン放送を達成 「吉田照美」が貫いた「バカで通す放送」の覚悟

 1980(昭和55)年10月、「吉田照美のてるてるワイド」(文化放送)がスタートした。令和の時代では考えられないような斬新な企画、何よりMCの吉田照美さん(74)の独特なしゃべりに当時の中高生は夢中になった。リスナー層は社会人まで及んだというが、とにかく月曜〜金曜の午後9時は、「てるてるワイド」を聴かずにはいられなかったリスナーは多かったはずだ。吉田さんに当時の思い出を語ってもらった(全2回の第2回)。 【貴重写真】吉田照美さんが人前でしゃべることが苦手だったころの初々しい写真を 打倒、ニッポン放送!  毎週、月曜日から金曜日まで午後9時から深夜零時までの夜のワイド番組のMCをやって欲しい——1980年、吉田さんは文化放送から業務命令を受けた。 放送時間帯が変わっても、やることは同じ 「初の冠番組でもあるんですけど、正直に言って、最悪でした。でも、社員なので業務命令となれば絶対に断れません。断るということは会社を辞めることですからね」  第1回でも書いた通り、当時の関東圏のAMラジオはニッポン放送が首位を走り、この時間帯も「大入りダイヤルまだ宵の口」でダントツの人気を誇りつつ2位のTBSラジオ「夜はともだち」と熾烈な聴取率戦争を繰り広げていた。そこへ殴り込みをかける文化放送で白羽の矢が立ったのが、吉田さんだった。 「プロデューサーが林山武人さんという人で、局内では『鬼の林山』と呼ばれた怖いことで有名な人でした。とにかくやたら怒る。そしてメガネの中心を中指でグッと上げて、説教を始めるんです。一緒に仕事をしたアナウンサーが何人か体調を崩すほどで、ボクも怖い人は苦手なので、嫌だなぁと思っていたんですが……」  その林山プロデューサーと、麹町にあったホテルのレストランで二人だけで食事をした。中高生をメイン聴取層にするなど、番組の説明を受けたのだが、その席で忘れられない言葉があったという。 「いいか吉田、聴いている人がニッポン放送だと思ってしまうような番組を作ろう」 「これはスゴいことですよ。要するにマネですからね。もちろん林山さんなりに色々と調べた結果、そういう結論になったのでしょうけど。内容的には派手で、バカで、それまでの文化放送にはない番組にする……これだけでも大変な“挑戦”です」  テーマ曲やジングルはもちろん、MCの話し方もニッポン放送を意識しないといけない。吉田さんは自身を「オレ」、リスナーを「お前」や「お前ら」と、おおよそ局アナとは思えない言葉を早口でしゃべった。 「ただ怖いだけではない、林山さんの本当の凄さは、あとで分かりました。生放送の本番が始まると、家に帰っちゃうんです。何をしているのかというと、自宅でラジオを3台並べて、ニッポン放送、TBS、文化放送の番組を三つ同時に聴いている。聖徳太子みたいな人ですが、そうやって常に同時間帯の最先端を探っていたんですね。放送中も『いまのコメント良くないぞ』とか、自宅から直接スタジオに電話をかけてきてダメ出ししていました。とにかく、担当する番組を一番にする、その意欲の塊だった人です」  企画だけではない。芸能事務所とのパイプも太く近藤真彦、野村義男、松田聖子……いずれもブレイク前から番組にブッキングしている。やがてくる「たのきんブーム」や「聖子ちゃんブーム」という、流行を探る感覚も鋭かったのだろう。 番組に集まった俊英たち  スタッフの熱を形に変える放送作家たちも、優秀な人材がそろっていた。後に岸田戯曲賞作家となる宮沢章夫氏も、作家としての仕事は「てるてるワイド」がスタートだった。また、「笑っていいとも!」「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)などで知られ、当時のお笑い界ではナンバー1と言われた加藤芳一氏も関わっていた。 「忘れちゃいけないのが、小山薫堂君ですね。『カノッサの屈辱』『料理の鉄人』(フジテレビ)、脚本家として映画『おくりびと』を手がけた彼も、『てるてるワイド』では最初、ADのアルバイトをやっていたんです。ボクがフリーになった際は一時的にドライバー兼マネージャーもやってもらいました。でも、あんなにエラくなるとはね(笑)。今思うと、物凄い才能が集結していたんだなと思います」  リスナーの女の子がお風呂に入り、その様子を1分間、カセットに録音。最後に体のどこかを自分で叩くという「バスルームより愛をこめて」なる名企画も。想像力を掻き立てられ、思春期の男の子にはたまらない内容だった。 「スタッフの熱はアツかったし、リスナー受けも良かった。でも、勝てるとは思っていませんでした。ニッポン放送の“壁”は、それくらい高いものだと思い込んでいたんです」  しかし、放送開始から1か月後にはニッポン放送に並び、翌81年1月には単独首位に躍り出る。これまで、決して文化放送が到達できなかった夜のワイド放送で、トップに立ったのだ。 「たのきんブーム、聖子ちゃんブームにうまく乗ることができたのも大きいですよね。ボクがマッチ(近藤真彦)から『ロバ』とあだ名されて広まったこともあり、文化放送アナウンス部に大量のニンジンがリスナーから送られてくるんです。とても食べきれないし、持って帰れないのでそのままにしておくと臭ってきて……先輩たちから『ちょっと吉田君』と小言を言われましたが、数字を取るようになると、何も言われなくなりましたね(笑)」  ヘビーリスナーだった記者(50代後半)には忘れられない記憶がある。夏休みか冬休みだったかは定かではないが、明日からは学校、という前日の放送。エンディングの最後のところで、吉田さんが何度かこう言ったのを覚えている。 「明日ちゃんと学校行けよ」 「そんなこと言ってましたか(笑)。番組の全体的な流れはボクと林山さんが話して決めていましたが、初めはワイワイ、ガヤガヤと大騒ぎしているけど、最後はボクの周りで何かいい話があったらそれを語ったり、リスナーの思いを伝えたりするコーナーで終わる構成にしようと決めていました。『てるてるワイド』なら『吉田照美のなにげない感動』というコーナー。これは『セイ!ヤング』から続けていたものです。そうした番組の流れの中で、そんな発言が出たのかもしれませんね」 誰に向かってしゃべり続けてきたのか 「てるてるワイド」で夜の首位を取った吉田さんに、文化放送は新たな依頼をする。  ラジオはテレビと違い、「ゴールデンタイム」と呼ばれるのは昼の時間帯だ。運転や作業など、仕事をしながら聞く人たちが多い時間帯である。1987(昭和62)年4月に「てるてるワイド」が終了すると、同月、午後1時から昼の帯番組「吉田照美のやる気MANMAN」が始まった。この時間帯、やはり首位の座をキープしていたのがニッポン放送「いまに哲夫の歌謡パレードニッポン」だった。 「また文化放送は最悪なオファーを出すなぁと思いましたね。この時はフリーになっていましたが、仕事は欲しいし(笑)。でも、あの枠は誰がやっても勝てなかったんです。それぐらい、いまに哲夫さんは強かった。昼間って、静かなしゃべりで、音楽のチョイスもよくて、リスナーのさりげない投稿を読んで……なんて、全部ボクがやってないことでしょう(笑)。だからどうしようかと、最初は迷いがありました。とはいえ、ボクのしゃべりは変えられないし、変わらない。それなら主語も今まで通り『オレ』、たまに『ボク』、時々は『わたし』でいいやと(笑)」  この時間帯は「働くあなたのためのラジオ」というのが番組作りの主要コンセプトであり、文化放送もそれを謳っていたが、「それはできないな」と思った吉田さんは「てるてるワイド」と同様に、番組全体をひとことで言えば「バカで通す」放送を貫くことに決めた。 「ゴールデンですから制作や編成だけでなく、広告や営業サイドも注目する時間帯です。だからって、八方丸く収まる放送よりも、変に気を遣わないというか、欠点や弱点を露骨に出したり、出されちゃったりする方が、ひょっとしたら聴いている人には面白いんじゃないかなぁと。ただ、ディレクターたちは大変だったと思いますよ。演者のボクらには一切耳に入ってこないように配慮していましたけど、相当、クレームの電話はあったと思います。何と言っても内容が、くだらないのを通り越して、下品ですからね(笑)」  当初は2位と3位をいったりきたりしていた時間帯聴取率だが、スタートから3年目には曜日別では1位を取る日も出るように。そして93年、時間帯聴取率で1位を獲得。こちらも悲願だったニッポン放送超えを果たすことに(ちなみに2007年の放送終了まで、時間帯聴取率の1位獲得通算回数は、実に55回!)。  夜と昼で、「打倒・ニッポン放送」を果たした吉田さん。「セイ!ヤング」では若者を、「てるてるワイド」では中高生を、「やる気MANMAN」では様々な層が聴取者となったが、 「しゃべり手として、自分の全ての言葉を理解してくれる人はそもそもいない、という前提がボクにはあります。でも、自分と同じような気持ちや考えをもった人が聴いていてくれると思ったら、気が楽だな……そう思ってどの番組もやってきました。自分がこの世界を目指したきっかけでもあり、憧れだった小島一慶さんが亡くなる直前にボクの番組に出て下さった際、『どういう人に向かってしゃべっていましたか?』と聞いたら、ボクと同じ考えをお話しになったんです。それで、これが正解なのかもしれないと思うようになりました」  今も第一線でしゃべり続ける吉田さん。若いスタッフや出演者とのコミュニケーションもうまくこなしている。最後に、若い人にやってはいけない3つのダメ「昔話」「自慢話」「説教」について、オジサン記者がアドバイスを乞うと、 「三つともオレは今でもやってるな(笑)。難しく考えることはないですよ。どれも面白くすればいいんです。面白くない自慢や昔話をするから嫌がられるんです。そのために、常にしゃべるネタを探すことが大切。もちろん、ボクも常に話のネタ探しは欠かしません」 【第1回は「『セイ!ヤング』で深夜ラジオを席巻した『吉田照美』伝説 NHKニュースで放送された“東大ニセ胴上げ事件”の真相 『裏番組がタモリさんだったので……』」吉田さんがアナウンサーを目指したきっかけと伝説の事件の舞台裏を詳しく】 吉田照美(よしだ・てるみ) 1951年、東京都葛飾区出身。早稲田大学卒業後の1974年、文化放送にアナウンサーとして入社。78年4月、同局の看板番組だった深夜放送「セイ!ヤング」に抜擢され、注目される。80年、夜のワイド番組「吉田照美のてるてるワイド」で初の冠番組をスタート。同時間帯で聴取率1位となり、またたく間に人気パーソナリティーに。85年3月、文化放送を退社しフリーに。テレビにも進出し「夕やけニャンニャン」(フジテレビ)、「11PM」(日本テレビ)などの司会を務め、全国区の顔に。文化放送ではその後「吉田照美のやる気MANMAN」(87年〜07年)、など数々の名番組を世に送り出す。油絵画家としても活動しており、三軌会会員・評議委員。現在のレギュラーは「てるのりのワルノリ」「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛(パッション)」(文化放送)、「TERUMI de SUNDAY!」(bayfm)など。 デイリー新潮編集部

もっと
Recommendations

スイス・ロカルノ国際映画祭で三宅唱監督の「旅と日々」が最高賞の「金豹賞」獲得 日本作品では18年ぶりの快挙

スイスの南部ロカルノで開催された国際映画祭で、日本の三宅唱監督の…

【ニャンちゅう】 津久井教生さん 酷暑再来に「ヘロヘロ仮面になってきています」 ベッドの上で過ごす人々に 「秋は必ずやってきます」とエール 【ALS闘病】

NHKの「ニャンちゅうワールド放送局」で「ニャンちゅう」役などを務め…

杉村太蔵氏が新人議員へアドバイス 国会中は「想像以上に眠いです」自身は代表カメラで狙われた

元国会議員でタレントの杉村太蔵氏が17日放送の「サンデー・ジャ…

【洪水警報】青森県・五所川原市に発表 17日16:19時点

気象台は、午後4時19分に、洪水警報を五所川原市に発表しました。また…

バイクの定時制高校生が死亡、丁字路で右折の軽乗用車と衝突

16日午後7時50分頃、神戸市灘区深田町の市道交差点で、同区、…

コスパ最高峰!ド迫力“富士山盛り”絶品そばに、30秒に1本売れる昔懐かし愛されパンも “神奈川のローカルチェーン”がスゴイ!【それスタ】

地元で長年愛され続ける“ローカルチェーン店”!今回は神奈川で調べ…

J1アルビレックス新潟 川崎に追いつかれ1-1で引き分け 連敗は止めたが勝利はならず【新潟】

【明治安田J1リーグ・第26節】アルビレックス新潟は16日、ホ&…

購入者の半数は海外…京都の木工作家が生み出す美、和の技法に洋の意匠に高評価

木竹工芸の全国公募展「伝統工芸木竹展」で、京都府南丹市美山町板…

生産台数は世界一!中国自動車メーカーの真の実力 自動運転分野では米国と「覇権争い」後れをとる日本

日米関税交渉の妥結に加え、米中政府が関税措置の停止期間をさらに延…

【甲子園】東洋大姫路が14年ぶりベスト8進出!西日本短大付に逆転勝利 4番・白鳥翔哉真が決勝打 エース木下鷹大が好救援

■第107回全国高等学校野球選手権大会第12日3回戦・東洋大姫路 3ー2…

loading...