田野辺実鈴アナ・インタビュー第5回 30代半ばで一般人の経営者と再婚し、39歳で長男を授かった田野辺実鈴アナ(42)。現在、子育てとフリーアナウンサー業を両立しながら、懸命に毎日を過ごす。信条は「めげない、やめない、媚びない」。次の目標は、気象の知識を武器に災害報道の最前線へ戻ることだという。(全5回の第5回) *** 【写真】当時から「美少女」…幼少期、小学、中学、高校、大学時代の田野辺実鈴アナ。突撃取材の様子も ——28歳の時、TOKYO MXを辞め、最初の結婚を経験されて、フリーでの活動を続けられています。体調はいかがですか。 「はい、今はすっかり元気になりました。フリーになってからは、一度も体調を崩して休むということはないです」 田野辺実鈴 ——フリーになって、最初の仕事は何でしたか。 「FMヨコハマから、地元のいい店を紹介して欲しい、というお話が来たんです。それで喋ってみたら、『あ、やっぱりフリーでやるのも楽しいな』と思いました」 ——35歳の時に再婚されたそうですねが、お相手はどのような方ですか。 「一般の方です。業界の方ではありません。5歳上で、経営者をしています」 ——どちらで出会われたのですか。 「私が以前、千葉に住んでいた時に、友達が『そろそろ(再婚を)考えたら?』と言ってくれて。のんびりしていた私を見かねて、紹介してくれました」 ——再婚生活はいかがでしたか。 「最初はやっぱり少し無理していました。忙しくて朝早くても、料理を作ったりしていました。でも、途中からもうそれはやめようと思って、正直に『今日は無理』って言うようにしました」 ——正直に伝えるようにしたのですね。 「最初はご飯の作り置きとかもしていたんですけど、そうすると休みが全部なくなってしまうので、途中から『無理です』って言ってやめました。ご飯を作れない時は『外食しよう』って言ったりしています」 同調しないタイプ ——2022年には長男が誕生したそうですね。 「あと3ヶ月で3歳になります。生まれた時は私が39歳でした」 ——お子さんが欲しいという気持ちは強かったですか。 「はい、子供好きだったので、欲しかったんです。でも、多嚢胞性卵巣症候群という妊娠しづらい体質でした。ですので、漢方とかいろいろな妊活をして授かりました」 ——人生、いろいろあったかと思うのですが、ターニングポイントとなった出来事はありますか。 「大学生の時、BSフジで学生アナウンサーをやっていたんですが、実際に2分間のニュースを読むようになったら、『これはやりたい』と思うようになって、アナウンサーという仕事に執着するようになったんです。それがなかったら、ただの憧れで終わっていました」 ——最近はフリーになる女性アナウンサーが増えていて、競争も大変かと思います。これまで心がけてきたことがあれば教えてください。 「『めげない』『やめない』そして、『媚びない』ということでしょうか」 ——媚びない、ですか? 「はい。あえて媚びない方が良い気がします。先方に色を合わせちゃうと、その色になっちゃうじゃないですか。そうすると、替えがきくというか、降板もさせやすい気がするんです。でも、自分の色にすると、その独自のやり方を作れるので、辞めさせづらいのではないかなと思います」 ——「自分の色」というのは、具体的にどのようなものですか。 「私は、番組中でもゲストの皆さんやコメンテーターの方に、同調しないタイプだと思います。そこで媚びないですし、裏表もあまりないようにしています。あえてアドレナリンを出して盛り上げるようなやり方はせずに、自分らしく心地よくやるようにしています」 ——そのスタイルは、どこで生まれたのですか。 「『5時に夢中!』からだと思います。あの頃、そのままの私が出ていた感じです。すーっとスタジオに入って、歩いて行って、自分の席に座って始まる、みたいな感じです。不機嫌に見られたこともあったかと思いますが、自然体を心がけていました」 ——今後、やってみたいことはありますか。 「できれば、もう一度、報道に戻りたいと思っています」 ——具体的に教えてください。 「これまで、お天気情報を伝える場面では、渡された原稿を読むことしか出来なかったんですが、もっと気象の知識をつけて、自分で原稿を書いて、自分の言葉で、災害などの天変地異の報道に携わりたいなと思っています」 第4回では【離婚後、義父だった「徳光和夫」とテレビ局でバッタリ再会 交わされたあいさつとは】では、田野辺アナが最初の結婚について振り返っている。 田野辺実鈴 1983年、横浜市生まれ。2005年にTOKYO MXにアナウンサーとして入社。12年からフリーで活動を始める。 デイリー新潮編集部