noteが主催する「創作大賞2023」で幻冬舎賞を受賞した斉藤ナミさん。SNSを中心にコミカルな文体で人気を集めています。「愛されたい」が私のすべて。自己愛まみれの奮闘記、『褒めてくれてもいいんですよ?』を上梓した斉藤さんによる連載「嫉妬についてのエトセトラ」。第8回は「美人が羨ましい!ルッキズム地獄」です 【写真】痛そう…顔があざになるインモードという美顔治療 * * * * * * * 前回「中学で友達のいなかった私が決死の高校デビュー。スクールカースト1軍の仲間入りをできたのに、その先に待っていたのは…」はこちら ルッキズムは愚か。でも美人が羨ましい 「この写真、加工してるでしょ! 背景めちゃくちゃ歪んでるし!」 誰かが写真をSNSにあげていると、真っ先に背景の空間の歪みを探してしまう。他人が写真を加工して「かわいい」とチヤホヤされていると気に入らない。 「みなさーん! この人、加工してますよ。本当はもっと顔がでかいですよ!」 え……私? しっかり加工してますよ。だってかわいく見られたいし。 容姿で人を評価するのはルッキズムと呼ばれ、望ましくないとされている。が、そうは言っても実際にはSNS、テレビ、学校、職場、どこを見ても美しい人が真ん中で目立っている。 容姿だけで人を判断することは愚かだし、容姿以上に中身が大事だとは思うけれど、できることなら少しでもキレイになりたいし、美人を羨ましく思う。 「もう隠さない! 塗るだけで目の下のクマが消えて自信のある目元に!」 「一日一回飲むだけ。たった1カ月でマイナス5kgの魔法の漢方薬!」 SNSを開くたび、うんざりするほど飛び込んでくる美容系の広告。うんざりといいつつ、つい目が止まってしまう。クマが消えるの? いくらするんだろう。こうしてじっくり見るから、さらに美容系の広告が増える。 容姿のコンプレックスは性格を左右する 若いころ、私はひどい天然パーマに悩まされていた。おまけに地黒で背が高い。小学校でのあだ名は「麩菓子」「チリチリ」「コイサンマン」などだった。ひどい。子どもは正直で残酷だ。 自由奔放すぎる髪を最小限のサイズに抑えるため、三つ編みのおさげにしてスプレーで固めていた。触るたびポロポロと粉が出るので、肩のあたりにどう見てもフケにしか見えないケープの粉がついていないか常に気にしていた。10歳の私は中年のおじさん以上に肩付近に気を配っていたと思う。 誰といても相手が自分の容姿を笑っていないか気になって話どころじゃなかった。チリチリの髪、肌の黒さ、背の高さを誰の目にも触れたくなくて、いつも背中を猫背にしてできるだけ小さくなっていた。密かに想いを寄せていた山内くんの視界には絶対に入らないように気をつけた。 本当は三つ編みなんかにしたくない。風にサラサラと髪をなびかせて歩きたい。 生まれつき直毛の子が羨ましくて仕方なかった。 どれだけ何かを頑張ったところで見た目が全てを台無しにした。髪が直毛だったら、肌が白かったら、背が低かったら……。こんな遺伝子をよこした親を呪った。 中学生になって少しずつお小遣いを貯めて、ようやく縮毛矯正を受けることができた。 夢のようだった。鏡に映る自分のサラサラな髪をいつまでもうっとりと眺めていた。生まれ変わった気がしたし、なんでもできる気がしてすぐに山内くんに告白をした。「あんたのことよく知らないし。ごめん」とフラれた。 そりゃあそうだ。ろくに話したこともないやつが髪を直毛にして急に勢いづいて告白してきたって「知らんし」となるだろう。私からしたら大変身だが他の日本人にしたら直毛なんてのは別に普通のことだ。これでようやく普通なんだ。 容姿のコンプレックスは人間の性格を左右する。こんな見た目だからオシャレをしても恋をしても仕方がない。かわいそうだと思われる前に自虐ネタで周りを笑わせて「面白いヤツ」を演じるしかなかったのだ。元から髪が直毛だったら私はもっと素直で明るい性格だったかもしれない。 子どもの頃から日常にかわいい女の子の基準はしっかりあり、それに比べて自分は全然ダメで「ありのままでいい」なんて思えない気持ちがしっかりと根付いている。 美人は人生丸ごとイージーモード 美人として生まれた人たちは、一体、人生をどう思っているんだろうか? 小学校のころ。私が必死に勉強してテストで100点をとってもクラスのみんながちっとも仲良くしてくれない中、美人で明るいミオちゃんは「おまえ56点かよー!」とみんなに茶化されて楽しそうにしていた。うるさく茶化している男子たちは、みんなミオちゃんのことが好きそうだった。 56点なのにチヤホヤされるなんて一体どういうこと? じゃあもう何点でも同じだ。美人はきっと0点でもチヤホヤされ、ブスは100点だろうと気にも止められない。 何をとってもかわいい子が優遇されていた。先生は明らかにかわいい子を贔屓していたし、学芸会でヒロインを演じるのもかわいい子(私は松の木の役)で、クラスのヒエラルキーのトップももちろん顔のかわいい子だった。 中学、高校、20代と成長するごとにそれはどんどんあからさまになる。美人はそれだけで恋愛も友達も仕事も人生丸ごとイージーモードなんだろうなと思う。 経済学者のダニエル・S. ハマーメッシュ氏は、著書『美貌格差ー生まれつき不平等の経済学』(東洋経済新報社)にて、容姿が美しいと人生で実際にどのくらいお得なのかを述べている。 見た目だけで生涯年収になんと2700万円の差が出ること、美貌がどんな風に収入に影響するのか、人付き合いや結婚、生まれてくる子どもにどう影響するのか、職業ごとの容姿による影響の違い、年齢や性別、人種ごとによる違いなど、あらゆる面から20年以上研究し、結論として容姿の美しい人はそうでない人に比べて非常に得をしているという結果を導き出している。 やっぱり! その他の部分の能力が同じなのだとしたら、誰だって美しい人を選びたいに決まっている。 美人な分、周りからの嫉妬が多いとか、ストーカーの対象にされやすいとか、老いて突然チヤホヤされなくなったとき、その温度差や執着心が辛いとか、美人には美人なりの苦労もあるのかもしれないが、それでもこちらからすると羨ましくて仕方がない。それでもいいから美人に生まれたかったとしか思えない。 残念な写真はいくらでもあります 努力せず人生勝ち組だなんてずるい! 私が大人になって努力して少しは小綺麗にすると、男性は明らかに優しくしてくれるようになった。 生まれつきの美人と違って元ブスの私は自分に自信がなく相手のご機嫌取りやサービス精神が過剰に旺盛なので「かわいいのにサービス旺盛でいいね」「かわいくて面白いとか最高」なんて会社の営業で重宝されたり、コンパニオンでバイトをすれば一定のファンがついてくれたりした。 美しさが自分に自信を与えることや、人の見る目や態度が変わることを実際に体験したからこそ、なおさら周りの美人が羨ましく思えるのかもしれない。 美容師のころ、好きだった先輩と付き合っていたつもりで散々尽くした挙句、実はスタッフ全員が知っている美人なカットモデルが恋人で、自分はただの浮気相手だったと知ったときは、怒りと恥ずかしさで気が狂って大事なヘアショーのヘルプでわざとミスをした。 会社員のころは、ちょっといいなと思っていた男性支店長が、やたら休憩時間を長く取るかわいくてギャルっぽい社員と不倫していたことを知って、営業部長に丸ごとチクった。支店長をそこまで好きだったわけではないけれど、相手を知った途端、その子の偉そうな態度と嫉妬が重なってムカついた。支店長とギャル社員はどこかへ飛ばされた。 美しさへの嫉妬に加えて異性の目や恋愛が絡むと、それはもう憎しみに近いものに変わる。 私はこんなに努力しているのに。生まれつき美人で努力もせずに人生勝ち組だなんて、そんなのずるすぎる! きっと頭が悪いはず。性格が悪いはず。もしかしたら整形かもしれない。 男性たち、気づいて! 騙されないで! 泡パック中 まだまだ「ありのままで」なんて思えない 他人が美しいことで自分の価値が損なわれるわけではないのに、何かを奪われてしまう気がして不安に思い、彼女たちが自分よりも得をしていることに腹を立てた。努力していないはず、どこかに欠点があるはずと粗探しをし、引きずりおろそうとしてしまう。 私はまず心がブスすぎる。 例えば「私はありのままで美しい」と強く信じられていたら、こんなふうに感じずに済むのだろうか? 最近ようやく社会が少しずつ変わりそうな気配を見せているが、まだまだメディアも経済も、目が大きく鼻が高く色白で胸が大きくウエストの細い女性を「美しい」の基準にしているように思えるし、『美貌格差』にもある通りエッセイストでも美容師でも会社員でも専業主婦でも、その他どんな環境にいても、美しい方が好かれるし優遇されているのが事実だ。 子育ても落ち着き、誰に見られるわけでもない今、私にはもう必死に容姿を着飾る必要はないのかもしれない。 それでもまだまだ「ありのままで」なんて思えない。 自信のなさや美人への嫉妬がいつでもドロドロと渦巻いていて、また新しい美容系のインチキ広告に惹きつけられたり、他人の写真に加工がされているかどうかを血眼になってチェックしたりしてしまうのだ。 ああ、もっとキレイになりたい。