道東を恐怖と混乱に陥れた「牛を襲うヒグマ」の正体とは? ハンターの焦燥、酪農家の不安、OSO18をめぐる攻防ドキュメント『異形のヒグマ OSO18を創り出したもの』。 追うハンター、痕跡を消すヒグマ、そして被害におびえる酪農家の焦燥をつづり、ヒグマとの駆除か共生かで揺れる人間社会と、牛を襲うという想定外の行為を繰り返した異形のヒグマがなぜ生まれたのか、これから人間は変貌し続ける大自然とどう向き合えばいいのか。『異形のヒグマ OSO18を創り出したもの』から抜粋・再編集してご紹介! 山の神を「怪物」に変貌させたのは大自然か、それとも人間か? 『遂に捉えた凶暴ヒグマ「OSO18」の全貌!…撮影成功のカギは「襲った牛に執着する習性」だった』より続く 忍者グマの痕跡を調査 2日後、今度は類瀬から電話があった。 「隣の牧場でまた牛がやられたみたい……」 類瀬牧場に隣接する佐々木牧場で、1頭殺されたという話だった。腹が裂かれ、内臓だけが食われる、これまでとまったく同じ手口だという。 佐々木牧場に駆け付けると、牧場の倉庫に近隣の酪農家や猟友会のハンター、標茶町役場職員、そして藤本ら20名近くがすでに集まっていた。この日も、死体を残したうえで、被害現場への立ち入りを制限していた。 これまでと違っていたのは、集まっている人々の中に藤本と赤石以外の、OSO18特別対策班のメンバーがいることだった。藤本が招集し、手分けして周辺の痕跡調査を行っていた。 2日前に類瀬牧場の沢にいたOSO18は、どのような道をつたって、佐々木牧場までやってきたのか。類瀬牧場と佐々木牧場は、隣接しているものの、1本の道路を隔てている。車が通る道路を横断したのであれば、目撃される可能性があるし、道路脇の笹が倒れ、痕跡が残されるはずだった。しかし、この2日間、目撃情報は一切なく、藤本が一度車を走らせた段階では、痕跡すら残されていなかった。 この不可解な現象は、4年間、ずっと続いてきた。佐々木牧場で被害現場は合計28ヵ所になるが、半径15kmの範囲に及ぶそれらの複数の現場の間には、国道や道道など、いくつもの道路が張り巡らされている。中でも、夜間も車の往来がある国道272号線が被害エリアの中央を貫いている。 にもかかわらず、OSO18らしきヒグマが目撃されたという話は、最初の被害以降、4年間、1件もなかった。だから見た目の特徴や正確な大きさも判然としない。多くのメディアが“忍者グマ”と表現したように、忍法のごとく姿を消しながら、現場間を移動していた。 今回も、道路が2つの現場を隔てている以上、必ずどこかで渡ったはずである。それを明らかにすることは、“忍者グマ”がどのような道を歩いているのか、という疑問を解消することにつながると藤本は考えたのだった。 意図的に身を隠していた可能性が浮上 類瀬牧場から佐々木牧場に移動したポイントはどこにあるのか。OSO18特別対策班は、それぞれの車で手分けをして、全長7kmの道を幾度も行き来した。 なぜ横断したポイントが見つからないのか。何時間かしたあと、藤本の頭にふと、ひとつの可能性がよぎった。 道路が小川を跨ぐとき、橋にさしかかったところで車を停めた。車を降りた藤本は、歩いて橋の下まで降りていった。 足跡は、橋の下にあった。 周辺の草は、森の奥までバタバタと倒れている。車は橋の上を通るため、道路を走らせているだけでは、橋の下に残された痕跡を決して目にすることができない。 OSO18は、道路を「渡っていた」のではなく、「くぐっていた」——。 酪農家たちに取材して作った手作りの地図を見返してみる。 書店で買った国土地理院地図にシールを貼り、被害地点の詳細なポイントを落とし込んだ。公表されている資料では大体の位置しかわからず、実際に牛が倒れていた具体的な地点まではわからない。国土地理院地図に記載された、川や沢など水路を示す線のすべてを青いマーカーでなぞっていくと、それぞれの現場の関連性が見えてきた。 ほとんどの襲撃が、川や沢のすぐそばで発生していたのだ。 この地域は、北海道各地にある酪農地帯の中でも、特殊な地形をしている。放牧地の隙間に、川や沢、林、湿地がモザイク状に入り組んでいる。 OSO18は、こうした地形を巧妙に利用し、現場間を川や沢に沿って移動し、道路に行き当たると、その橋の下をくぐったのではないか。たとえ車通りが多い国道であったとしても、橋の下を歩いていたら目撃されない。人間に目撃されやすい箇所を把握し、意図的に身を隠して移動していたのだ。 驚くべきことは、それだけではない。被害地点を酪農家たちに案内してもらった際、偶然というには無理のある共通項に突き当たった。 OSO18の被害を予見 2019年8月6日、牛を襲われた酪農家の佐藤守はこう語っていた。 「昔はこういうふうに開けた放牧地じゃなくて、木が生い茂ってて、ここは『熊の沢』って呼ばれてたんです。牛を飼うために放牧地をどんどん広げてきましたから。もともとクマのいるところを切り開いたというか」 2021年7月1日、牛を襲われた酪農家の郄野政広はこう語っていた。 「牛が襲われた場所から向こうの沢は、昔、別名『熊の沢』って言われてたんですよね。そばにうちの牛が夜寝てて、多分、『熊の沢』からそーっと来て、ガッと襲ったのかなと」 異なる被害現場のすぐ脇に、「熊の沢」という共通の名を持つ沢が存在していたのだ。 私たちが確認できただけでも、「熊の沢」は町内に5ヵ所もあった。 北海道開拓期、まだ人間の開発の手がいまほど入っていなかった時代、ヒグマは現在よりはるかに多く生息していたと推測されている。ヒグマの跋扈する光景が色濃く刻まれた時代に名付けられた「熊の沢」は、ヒグマが棲みやすい環境がそこにあることをいまに伝えていたのではないか。 地図に載ることもない地元の人たち独自の呼称が、OSO18の被害を予見していた。 『「OSO18は全て見通しているのか」…ハンターたちの「1週間待ち伏せ作戦」を嘲笑う、賢すぎるヒグマの行動』へ続く 【つづきを読む】「OSO18は全て見通しているのか」…ハンターたちの「1週間待ち伏せ作戦」を嘲笑う、賢すぎるヒグマの行動