参院選を前にネット上である騒動が起きた。男性のA氏が、とある政党から立候補を表明していた女性B氏と全く同じ名前で立候補することを表明したのだ。 A氏の本名はもちろん全く違う名前。投票用紙に同じ名前が書かれ、どちらの候補者か判断できない票は、得票率に応じて配分される仕組みがある。A氏は本名ではない「通称」を使ってB氏と同じ名前で立候補すれば、この仕組みにより、B氏への票を少なくすることができると考えたのだ。 結果的に、A氏は立候補の取り止めを発表したが、政治家からは、「民主主義の根幹をゆがめる」「ある種の合法的な破壊行為」といった指摘もあがった。 そもそも、立候補者が出馬するときに使う名前にはどういったルールがあるのか？　そして、そのルールはSNSが普及したいまの時代に沿ったものになっているのだろうか？ ■本名以外で出馬もOK？　選挙で使う名前のルール ポスターや政見放送など選挙広報で立候補者が使う名前は、原則として、戸籍に記載されている本名でなければならない。 一方で、公職選挙法施行令には、条件を満たせば本名以外の名前を使うことができるというルールが定められている。 「本名に代えて本名以外の呼称で本名に代わるものとして広く通用しているもの（以下、「通称」）が記載され、または使用されることを求めようとするときは、（略）当該通称について選挙長の認定を受けなければならない」（公選法施行令88条） 選挙の公示・告示がされた日に、選挙管理委員会（以下、選管）に立候補の届け出と一緒に「通称認定申請書」を提出し、選管の選挙長が認めれば、本名ではない「通称」を使用できる。 よくあるのは、本名の漢字が難しい候補者が名前の一部をひらがなに変える場合などで、こうしたケースは「通称認定申請書」を提出すればよいのだという。 そして、芸名で活躍する芸能人が政界に進出するときなども、このルールを使えば、本名よりも世間に知られている芸名で選挙活動をすることができる。 例えば、3期12年千葉県知事を務めたタレントの森田健作氏は本名の「鈴木栄治」ではなく「森田健作」として活動。宮崎県知事を務めたタレントの東国原英夫氏も、2007年の選挙では芸名の「そのまんま東」を名乗り、選挙戦を戦った。 ■「通称」使用のためには“証拠”の提出が必要 ただ、申請をすればなんでも認められるという訳ではない。名前の漢字をひらがなに変えるケースを除いて、その「通称」が本名に代わって広く通用していることを証明する“証拠”を一緒に提出することが求められているのだ。 「呼称が本名に代わるものとして広く通用しているものであることを説明し、かつ、そのことを証するに足りる資料を提示しなければならない」（公選法施行令88条） 総務省によると、“証拠”となるものは「通称」が書かれた著書や名刺、はがきや手紙などで、それらの“証拠”を見て「通称」として広く通用していると判断されれば、本名以外の名前を使って選挙に出ることができるという。 ■「ミルクおやじ」「AIメイヤー」、過去に認められた「通称」 これまでの選挙でもユニークな「通称」が認められてきた。 埼玉県深谷市では、「ミルクおやじ」という通称で活動をする市議会議員がいる。本名は「村川徳浩」さん。「ミルクおやじ」という通称を使って2011年に初出馬。1800票以上を集めて初当選すると、現在まで4期にわたり市議を務めている。 酪農家だった25年前に牛乳の消費の落ち込みを懸念して、シンガー・ソングライターとして音楽活動を始めた村川さん。このとき「ミルクおやじ」を名乗るようになったという。出馬時にはすでに10年以上の活動実績があり、本名よりもより通用しているであろう「ミルクおやじ」の通称での出馬を決めた。深谷市の選管によると、音楽活動をしていたときのCDやファンレター、新聞記事などの提出で「通称」としての使用を認めたという。 「選挙や政治をなめている」「深谷市の恥」。当時、村川さんのもとには、こうした厳しい声が届いたという。ただ、こだわりと覚悟があった。 「ふざけて名乗っているのではなく、牛乳のPRや酪農家への理解といった目的があった。どういう考えのもとで出馬するのかが重要。有権者は当選後も議員の質を見ている。政治活動を続けるのは甘くない」 ■「有権者の本当の声届けたい」本名と顔を隠して出馬の意図 一方、神奈川県真鶴町でも、2023年に開かれた町長選である通称を使った立候補者の出馬が認められた。「AIメイヤー」氏だ。 自身が書いた電子書籍が発売されている通販サイトなどを“証拠”として選管に提出したが、AIメイヤー氏によると、書籍は告示日のたった1週間前に発売したもの。ページ数はたったの8ページで1冊も売れていないという。 「AIメイヤー」氏は通称を使い出馬しただけでなく、顔も隠して出馬した。その理由について、こう主張する。 「顔も本名も出して選挙に出ると、何から何まで洗いざらい明るみになる。仕事への悪影響や誹謗中傷もある。こうしたことから事実上は出られない。出られるのは既得権益者ばかりで、政策も既得権益者の政策に留まり、有権者や弱者の声が届かない。当選するとは思っていなかったが、本名や顔を隠しても立候補できるということを証明したかった。民主主義の発展につながると思った」 ■選管は「法律“ふわっと”、判断難しい」 様々な考えを持って通称使用を求める立候補者たち。一方で、選挙長はそのときどきに判断を迫られることになる。「AIメイヤー」の使用を許可した真鶴町の選管の担当者は、「通称使用申請というと、名前をひらがなに変えるなどが一般的。戸籍と全く関係のない通称の申請は前例がなかったので法の解釈の部分で判断が難しかった。法律には、判断基準がふわっと書かれているだけで具体的に書いていない」と当時を振り返った。 ■通称使用の厳しいルール「あまり望ましくない」　有権者は立候補者の中身見て 選挙制度に詳しい日本大学法学部政治経済学科の安野修右准教授は、「立候補の権利は誰しもに自由に認められるべき権利のはず。また、その投票用紙にどういう名前で記載をされたいのかという意思も立候補者の自由意志に帰属するべき」とし、「法律によって厳しい規定を設けることはあまり望ましいことではないと思う」と話す。 その上で、法の抜け穴をつくような動きが起きている原因について、「既成の政治が劣化していることが一番最大の理由」とし、「有権者が既存の政治に嫌気がさしている。そうした人たちを既存の政治の中でとりこぼさないような方法をいまの政治は考えていかないといけない」と指摘した。 一方、「有権者は選挙運動や主張する政策内容を見て、妨害行為があれば自発的に淘汰していくことが必要」とした。 都議会議員選挙が告示され、参議院議員選挙も控える中、私たち有権者一人ひとりが、自ら正しい情報を見極め、選び取る力が求められている。