六ヶ所村の原子燃料サイクル基地ができるまでの40年は、まさに反対運動との対決の歴史であった。ところが反対運動が収束した2012年に当時の政権党である民主党は、突如再処理事業からの撤退を決定するのだった。 民主党政府の再処理事業からの撤退決定に対して、六ヶ所村では即座に村議会を開いて、再処理路線の堅持を求める意見書を採択。この動きに合わせるように、むつ市長も使用済み核燃料の搬入拒否を表明した。「むつ市がこれまで受け入れてきた全国の核廃棄物を、すぐに引き取れ」というわけだ。 そしてこれらの表明に慌てた政府は、再処理路線の続行を認めたのである。 40年以上ドイツで暮らし、エネルギー関連の著書も多い川口マーン惠美氏が、「六ヶ所村原子燃料サイクル基地建設」について語る。 ※本記事は、『 原子力はいる? いらない? 』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 六ヶ所村村内でも、立地決定当初は熾烈な反対運動が起こった 川口マーン惠美(以下、川口):六ヶ所村が日本を代表する原子燃料サイクル基地になるには、1984年7月に立地申し入れをして以来、40年かかっています。日本原燃側の言葉を借りれば、まさに反対運動との対決の歴史。 そもそも、ようやく立地が決まったと思ったら、すぐにチェルノブイリ事故が発生(1986年4月)。大都市圏を中心に全国的な反対運動が繰り広げられ、六ヶ所村はもとより、青森県内でも賛否が二分して、激しい闘争になったといいます。 ──特に県内では農業者が猛反発し、上北郡東北町から青森全県へと拡大。反対運動のピークである1989年4月には、六ヶ所村集会に県内外から約1万人が参加した。 なかでも地元漁業組合が激しい反対運動を繰り広げ、1986年6月の海域調査でエスカレート。海上保安庁、機動隊が出動して、逮捕者も数名出す事態になった。 反対運動は、選挙にも影響する。参院選、衆院選、いずれも、反対派候補が当選。しかし1991年2月に、容認派の県知事が4選したことにより、反対運動は収束に向かった。その裏には、住民の理解を求めるための、原燃スタッフによる必死の努力があった。 たとえば、1984年から始まった全戸訪問、のちに村内の清掃活動、のちに名産となる長芋焼酎「六趣」の開発への協力。勉強会や県産品販売促進活動、農業支援など。 しかし2004年にウラン試験、2006年のアクティブ試験が開始すると、再処理工場がいよいよ竣工ということで、全国の反対派が再び決起。なかでも出版や映画などで名の知れた人々による反対論が盛り上がりを見せ、市民団体による執拗なデモ、県民説明会の妨害など、不穏な事態が続いた。 ただ、このとき、地元では反対運動はすでにほとんどなく、むしろ隣の岩手県の漁業者を中心に、激しい反対運動が起こった。三陸沿岸の各漁協が猛反発するとともに、新日鉄釜石のある釜石市を除く、岩手県内のほとんどの市町村で反対決議が行われた。 そこで日本原燃は、東北電力とも連携し、三陸沿岸の各家庭に折り込みチラシを配布したり、海洋生物環境研究所による岩手沖の測定点を追加したりして、ようやく反対運動は収束。 ところが、震災翌年の2012年9月に、当時の政権党であった民主党が、再処理事業からの撤退を決めた。 川口:その話は聞きました。核燃料サイクル危うし。でも、その後の展開がまさにドラマでした。民主党の決定に対して、六ヶ所村では即座に村議会を開いて、再処理路線の堅持を求める意見書を採択。そして、むつ市長も、使用済み核燃料の搬入拒否を表明。つまり、政府に、「じゃあ、我々が受け入れてきた全国の核廃棄物を、即刻、引き取ってください」と言ったわけです。 さらにそこに、イギリスとフランスの駐日大使が自ら出向いて、藤村修官房長官に懸念を表明する。これに慌てた政府は、再処理路線の続行を認めます。 当時、原燃の社長として矢面(やおもて)に立っていた川井吉彦氏は、そのときのことを思い返し、次のように語っています。「村議会の猛反発が、その後の再処理事業の存続に大きなインパクトを与えました。村議会議員にも村民の皆さんにも、何としても地域を豊かにしたいという熱い想いや、国策に協力してきたという強い自負の念があったのだと思います。このとき、絶対に地域の皆さんの信頼を裏切るようなことがあってはならないと、思いを強くいたしました」。これまでの長く地道な理解活動が実った結果でしたから、感無量だったと思います。 それにしても、民主党(当時)というのは、国益も経済性も安全保障も、それどころか論理も無視して、好き嫌いだけで政治をし、しかも、いいことをしたと思い込んでしまうところが、まさに今のドイツの緑の党と同じです。 ただ、それから13年たった今でも、肝心の与党のなかにも、脱原発の声の大きな政治家がいます。彼らは皆、再エネ発電の拡大には熱心です。しかし、残念ながら日本では、太陽光や風力、とりわけ洋上風力は、造れば造るほど電気代が高くなる(キャノングローバル戦略研究所の杉山大志氏)。 これは、ドイツがすでに証明してくれています。得をするのは事業者と、彼らと結託している政治家や官僚ばかりでしょう。一方、国民は高い電気代で彼らの儲けを捻出するという仕組みになっています。 そもそも、太陽光パネルも風車も、前述したようにすでに中国依存が高く、これ以上、増やしたら安全保障上の問題が生じてきます。こういう人たちが政治をしているというのが、本当に疑問です。ドイツもそうですが、再エネの闇はかなり大きいと思います。 下北半島全体が日本のエネルギー政策に貢献している 川口:2024年の六ヶ所村訪問のときは、偶然、会津藩の子孫の方の話を聞くことができて、大変心を打たれました。実は、下北半島の斗南(となみ)藩とは、戊辰(ぼしん)戦争に敗れ、領地を没収された会津藩の人たちが、懲罰的に藩替えをさせられてできた領地です。 ここで再興を許されたということになっていますが、長州藩は会津の人々を苦しめるために、稲作のできない過酷な土地に「流した」わけです。寒さと飢えで、多くの人が命を落としました。ちなみに、青森の代名詞であるりんごなどが採れる豊かな土地はお隣の津軽藩の領地で、文化も違います。結局、斗南藩は、廃藩置県もあって2年足らずで消滅しました。 しかし、彼らはその後も、会津の再興を期してか、教育にものすごく力を注いだといいます。だから、その会津精神や、「ならぬことはならぬものです」という藩校「日新館」の教えが、今も下北地方には漲(みなぎ)っているような気がします。 ただ、この土地の貧しさは、つい最近までそれほど変わらなかった。夏でも太平洋から吹きつける冷たいヤマセの影響で稲作ができなかったのですから、当然です。冬には大半の家庭で、お父さんが出稼ぎに行きました。ところが、原子力産業が根付くようになり、雇用が生まれ、今では誰も村の外に出ていかなくてもよくなったのです。 つまり、六ヶ所村というのは、こうして40年かけて、原燃と地域の人たちが一体となって、皆で豊かになろうとして創り上げてきたものだったのだと、私は理解しています。こういう話は、東京、大阪など都会に住む電気の大口消費者の私たちが、知るべきことだと思っています。 電気は貯めておけない--発電量を需要に合わせるのが難しい再生可能エネルギー