悪夢の正体は、小説だった。くどうれいんの『スノードームの捨てかた』ができるまで

5月に小説作品集『スノードームの捨てかた』を刊行されたくどうれいんさん。『氷柱の声』以来約4年ぶりとなる小説であり、初の短篇集です。時間をかけて重ねてきた短篇を纏めた贅沢な1冊にまつわるエッセイ「本の名刺」をお届けします。 書きたいのに、こわい。執筆はしんどい。 小説を書き始めてから、たびたび悪夢を見るようになった。小説の締め切りを抱え始めてから、悪夢は夜ごと枕へひたひたと来る。 四年前に中編小説を書いて以来、なかなか小説を書けずにいた。書きたいけれど腰が重く、プロットを書いてみてもうまく書き進められない。小説、こわくない。小説、こわくない。一度もこわいと思ったことはないはずなのに、しばらく書けずにいるうちにすっかり億劫なものになってしまった。とにかく手を動かし、「書き終える」を積み重ねよう。打ち合わせを繰り返し、ここまで三年ほど少しずつ、しかし多いときはふた月に一度くらいのペースで新作を書き続けた。 数時間で書き終えるエッセイと違って、小説は一日では当然書き終わらない。書き終わってもまるっと書き直したり、半分以上直したりするようなことが何度もある。中編小説『氷柱の声』は猛烈な勢いにからだを乗っ取られるようにして「書いた」というよりも「書けた」ので、『スノードームの捨てかた』ではじめて「小説を書く」という行為と向き合ったように思う。小説を書くことは想像以上に担当編集との二人三脚であり、二人三脚でなければ耐えられないほどぐったりとしてしまうものだと知った。 それまでも少しは書くことの苦労をわかっているつもりでいたが、小説を書くのはあまりにしんどい。エッセイや短歌を書くときとは全く別の競技に感じる。エッセイや短歌が楽ということでは決してない。それらを書くことは比較的慣れているからたのしいと思えているだけだとも思う。しかし、小説を書くことはまだまだ慣れず、いまのところ慣れる未来があるようにも思えない。新しい作品に取り掛かるたびに知らない楽器を手渡されるように興味深く、むずかしく、ひたすら途方に暮れる。これまで以上に小説を書いているすべての人たちへ塔を見上げるように遥かな敬意を抱くようになった。 小説を書き始めたら、悪夢にうなされるようになった話 このからだには、どうも小説を書くときにしか減らないゲージがあるような気がする。減ってはじめてそのゲージがあることを知った。それは体力でなく、精神力でもなく、単に集中力ということでもない。しかしそのすべてがぐんと減りもする。頭でなく、こころでなく、これはいったい何がげっそりとしているのだろう。げっそりというとからからに枯れるように思われてしまうのだが、それとも違う。もったり? ごっそり? とにかく、小説に取り掛かっている間は萎れた茄子のようにぽってりとやるせない。 スケジュールに小説の締め切りが表示されるようになってから、その日付が四角く赤紫色に発光して無花果のような香りを発している気がする。何をしていても不意にその匂いがして、小説が書けていないことを思い出す。着手しない限りは、うまく書けていない限りは、それがずっと続く。すると、悪夢を見るのである。これまで、寝るとなったら「すこーん!」と眠りに落ちて、肩を揺すられてもなかなか起きないほどに深く睡眠をとっていたわたしに、悪夢にうなされて「ひい」と声を上げて起きる日々が続いた。 悪夢のバリエーションは本当にさまざまである。気に掛けていた友人関係がもっとも良くないほうに破綻する。わたしのせいでいきのいい海老が跳ねて大量の辣油でセレブの高い白い服を汚す。前に付き合っていた人がわたしの良くないところを列挙したブログでバズっていることをリポストで知る。歯が四本抜ける。とても粗雑な取引先との仕事で、その粗雑さをあまりに辛辣に責めすぎてこちらの立場が悪くなる。へんな色のプールで泳ぐ。任せて! と言っていた八人の飲み会の店を予約しそびれていることに当日気付く。よかれと思った気遣いが大失敗してみんなに責められる。炊飯器でレゴを炊く。 半分以上はあまりにリアルな自分の過去の失敗を元にした夢なのでここには書けないが、覚えている限りでもこれだけある。途中から、夢の中で(ああ、これは夢だ)とわかるようになったが、それでもその夢から自分の意思では脱することが出来ない。夢はその日一日の脳内を整理するために見るものだという。小説を書くことで、わたしの脳はこれまでにないよじれかたをしているのかもしれない。 それでも、書くことでしか救われない 悪夢を見るとどうも疲れが取れない。起きてすぐ大きなため息をつき、げんなりと一日がスタートするのはこりごりだった。睡眠の質を向上させるサプリメントを摂ってみたり、あたたかいアイマスクをして眠ってみたり、適度な運動をしてみたり、湯船にしっかり浸かってみたり、寝る前にスマートフォンを使うのをやめてみたりしたけれど、変わらず悪夢は来る。唯一悪夢から解放されるすべがあり、それが、小説を書くことだった。悔しいことに、ここまで書けたら十分だと思うくらい書けた日は夢を見ずに済むのである。そうとわかればもう、書くしかない。向き合うしかない。車ごと海に飛び込む夢を見て「わっ」と叫ぶ自分の声で起きたくないのであれば。 執筆がたのしいばかりではなくなったことに、ほんのすこし安心している自分もいる。根っからの労働人間であるわたしは(つらくあってこそ仕事らしいではないか)とも思ってしまう。こんなにしんどいのだから、エッセイだけ書いて暮らせばいいのではないかと思う日もある。しかし、校了してほっとすると、またプロットを書き始めてしまう。小説を書くおもしろさは、小説を書かないと得られないと知ってしまった。 このたびの小説作品集『スノードームの捨てかた』のゲラを確認し終えた日、また夢を見た。わたしは真っ白い空間にいる。片翅が一畳ほどある巨大な金色の蝶がわたしの目の前で羽ばたき、その鱗粉がわたしの顔にたっぷりと掛かる夢。ぶぁさ、ぶぁさ。金の粉が頰や額に張りつくのを(嫌なんですけど)と思いつつ(でも、もしかして縁起いいのか?)と眉間に皺を寄せて起床した。果たしてあれは悪夢だったのだろうか。 『スノードームの捨てかた』くどうれいん(講談社刊) 10年後に思い出す。そんな日は突然やってくる。 『わたしを空腹にしないほうがいい』『うたうおばけ』『湯気を食べる』がロングヒット&話題沸騰!! ままならない人生に巻き起こる、心ざわつく悲喜こもごも——。 エッセイで日常のシーンを鮮やかに切り取り掬い上げてきたくどうれいんが描く、風味絶佳な初の小説作品集。 書くことが好きだけれど、書くために生きているわけではない--くどうれいんの現在地

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