プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として偉大な足跡を残して「ミスタープロ野球」と呼ばれ、3日に89歳で死去した長嶋茂雄終身名誉監督の告別式が8日、東京都品川区の桐ヶ谷斎場で執り行われた。 読売巨人軍や読売新聞の関係者ら96人が参列し、冥(めい)福(ふく)を祈った。 【通夜の喪主・長島三奈さんのあいさつ】 本日はお忙しいところ、また遠路にも関わらず、父・長嶋茂雄の通夜にお越しくださいまして誠にありがとうございました。祭壇の父の写真をよく見てください。家族と過ごす時は、父は本当に太陽のように大きくて、明るくて暖かい日差しを私達家族に毎日降り注いでくれました。よく会社、仕事場に行きますと、「監督って試合に負けると、機嫌が悪いの?」といろんな方に聞かれました。父はどんな試合になっても機嫌が悪かったり、何か物に当たったり、怒ったり、そんなような姿は、私は一度も見たことはありません。 ただ、私がこんなことを言いますと、選手の皆様の中には、「いやいや、試合中、僕ベンチでずっと監督から蹴られたぞ」と、そんなことを思ってらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、父はグラウンドでは真剣なあまり、雷や嵐が吹き荒れたかもしれませんが、そのおかげで、長嶋家は毎日青空で、父が太陽のように笑顔たくさん振りまいてくれました。そして6月3日、朝6時39分に父は長い眠りにつきました。そのわずか7時間後に一番に駆けつけてくださったのが王貞治会長です。 会長、本当にありがとうございました。父は、王会長が巨人軍に入団されて初めて会った日のことを60年過ぎた今も鮮明に覚えているんです。父は、上野駅で学生服を着た王会長が前から歩いてきた時に、「なんて体が大きいんだ。目もクリクリ大きくて、すごい立派な体をしているな」。父は会長の話になると、本当にずっと笑顔で話が止まりません。 私が以前、「王さんとパパはライバルだったの?」と聞いたことがあります。父は真っ先に「三奈ちゃん違うよ。王さんとパパはね、二人で一緒に巨人を強くしていこう。二人で一緒に日本一のチームを作るんだって、ずっと一緒に同じことを考えて、頑張ってきたんだよ。パパが打てなかった時は、王さんが打ったし、王さんが打てない時があったら、よし、今日は俺が打つぞ、そういう気持ちになるんだ」と、もうずっと父は笑顔で会長の話をしていました。 不思議なんですが、父が王会長の話をするときは、もうずっと笑顔なんですが、目に涙が浮かんでいるんです。涙ぐみながら笑顔で思い出話をする、そんな方は、父にとっては王会長だけでした。本当に最後まで父に付き添っていただきましてありがとうございました。 そして6月4日早朝には、ニューヨークから松井秀喜さんが駆けつけてくださいました。松井さん、本当にどうもありがとうございました。ご存知の通り、父は松井さんが世界で一番好きな方です。もし、松井さんと私が同時で海に溺れたら、父は私じゃなくて真っ先に松井さんを助けに行くだろうなと、本気で私は考えたこともあります。 松井さんがヤンキースに入団された1年目の2003年、もう、父は居ても立ってもいられず、ニューヨークに駆けつけました。そして、ニューヨークのプラザホテルという、とても格式高いホテルのスイートルームから「松井、バットを持って今すぐ来い」と、すぐに電話をしたそうです。松井さんはびっくりされて、「今からですか?」と、バットのケースにしまわずに、もうそのまま裸のまま、小脇に抱えて隠すように、プラザホテルのロビーを歩いて行ったんですよ。私、その話は何度聞いても顔がほころんでしまいます。その後は、父と松井さん二人だけで、無言で松井さんの素振りの音だけが部屋に響いていたと後で聞きました。 そして、松井さんが38歳で現役を引退された時に、その新聞記事を父が私に見せながら、「パパもね、引退したの38歳なんだよ、松井と一緒なんだよ」と、ちょっと寂しそうな、でも、誇らしげな顔をしていたのを、私は今でも覚えています。 言っていいのか、わからないんですが、実は松井さんと私でちょっとある約束をしていたことがありました。それは、松井さんが次の巨人の監督になられるかのような雰囲気を父に醸し出しておけば、父は毎年そのことを楽しみにリハビリをもっともっと頑張るので、松井さんどうか父が100歳になるまで言い続けてください。もう題して「『監督やるやる詐欺』しましょう」と、ずっと松井さんと話していました。今ちょっとここで話してしまったので、多分父も聞いているかと思います。 父は本当に耳もいいですし、記憶力もいいんですが、なぜか選手の皆様のお名前はよく間違えておりました。上原浩治さんに、上原さんいらっしゃると思うんですが、上原浩治さんにお会いしたときには、「監督、僕のことをずっと二岡って呼ぶんですよ」って。すみませんって言いながら、また、ある時は桑田真澄さんにお会いしたときは、「監督、僕のことを最後までクワダって言っていました」。娘としてはちょっと恥ずかしかったんですが、もう父の話が出ると、もう周りの方が皆さん、一瞬にして笑顔の花がぱっと咲いて、父ってどこにいてもいろんな方を笑顔にするんだな、もう野球と関係ないのに笑顔で包んでくれるんだなと、ちょっと恥ずかしながらも娘としては誇りに思っておりました。 そんな父ですので、皆さん、どうかこれからも笑顔で笑い声をあげながら、父のことを話していただければなと思います。そして本日は、読売新聞グループ本社様の多大なるお力添えを賜りまして、父らしい温かい通夜を執り行うことができました。家族・親族を代表しまして、心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。 最後になりますが、私からのお願いなんですが、実は、父の祭壇をどのようにするか打ち合わせをした時に、本来でしたら、グレーだったり、落ち着いた印象にするんですが、私はどうしても父の大好きなジャイアンツカラー、オレンジにしたくて、どうかオレンジの花で、父を囲ってくださいと言って、このような素晴らしい明るい祭壇を作っていただきました。 そして、巨人軍様の提供で、父が大好きな背番号3のユニホーム、そして隣には、天覧試合でホームランを打った時に使用したバット、そして、松井秀喜さんと一緒に授与していただきました国民栄誉賞の金のバット、そして、こちらには、天皇陛下から直々に授与されました勲記と文化勲章を飾らせていただきました。 この祭壇には、長嶋茂雄の誇りが詰まっております。皆様、もしお時間がございましたら、帰りがけにお持ちの携帯でいいので、ぜひ父の誇りやこの祭壇、父と一緒に最後の記念写真を取ってあげてください。その時はどうか涙は見せずに、笑顔で思いっきり父に笑って話しかけてあげてください。そして、その写真は皆様の心の中にずっと留めておいていただけますと、大変ありがたく存じます。本日は誠にありがとうございました。