どこか現代には「教養を身に付けなくてはいけない」という焦燥感のようなものがある。ビジネス雑誌は不定期に「教養特集」を組むし、『教養としての〇〇〇〇』といったタイトルの書籍も多く出版されている。しかし、この場合の「教養」とは何だろうか。批評家でメディア史研究者の大澤聡氏が教養の本質を鋭く分析する。【大澤聡/批評家】 (全3回の第1回) 【写真】かつての「教養人」大宅壮一氏 在りし日の貴重なカット 論客を頼りにメディアを渡り歩く青年の話 令和時代のわたしたちが「教養」という、どこかしら誇らしさと気恥ずかしさとがないまぜになった単語を耳にしたときに連想するのはどういったものでしょうか? たとえば先日こんな出来事がありました。 動画から教養を得られるのか 大学のオープンキャンパスの相談ブースで待機していたところ、ひとりの男子高校生が訪ねてきてくれて、ちょうどほかに来客もなかったので1時間ばかり1対1で会話したのですが、ゲンロンカフェ(五反田のトークイベントスペース)で哲学者の東浩紀さんと対談するわたしの姿を動画で観てくれたというのです。ゲンロンの配信プラットフォーム「シラス」でイベントをよく観るのだと名乗り出てくれた高校生視聴者という存在がわたしにはずいぶん新鮮で、どうやってそこに辿り着いたのか訊ねると、ひろゆきさんを入り口に、「ABEMA Prime」→「NewsPicks」→「ReHacQ」、そして「シラス」へ……と移っていったのだと経路を教えてくれました。その果てに、わたしのような者のところへまで足を運んでくれたわけです。 何人かの「論客」と呼ばれるユニークな出演者たちをフックに、メディアからメディアを渡り歩く様子はそれなりに想像できます。論客個人とプラットフォームとの両面をきっかけにして見たいコンテンツがどんどん増えていく。なるほど、同じようなルートを辿る10代の若者は潜在的にはそれなりにいるだろうなと現実味をもって気づかされた瞬間でした。出発点がひろゆきさんというあたりも、いかにも現代風ですよね。「それってあなたの感想ですよね?」が小学生の流行語ランキングの上位に入る時代です。 おもしろいのは、彼の辿ったそのコースに書籍が1冊も存在していないこと。実際ほとんど読んでいないらしいのです。動画で完結している。けれども、だからといって、エンタメや娯楽としてだけ楽しんでいるふうでもなく、やっぱり「教養」と呼ぶ以外にない知的なものへの純粋な憧れや、やむにやまれぬ好奇心ゆえのサイト遍歴だった。その証拠に彼の相談は理系から文系に志望学部を変更するか迷っているというものでした。とすれば、従来型の教養観をもって、彼の一連の視聴行為を「教養とは無関係」と切って捨てるのも、じつはとてもむずかしい。 新しい教養の現場? わたしは2018年に『教養主義のリハビリテーション』(筑摩書房)という本を出しました。池上彰さんを代表例に挙げて、「知らないと恥をかく〇〇〇〇」(池上さんのシリーズ本の題名でもあります)といった社会常識や時事問題をテレビ番組の尺にあわせたコンパクトな解説によって学んで、翌日にはそれを披露できることが教養の基本的なイメージになっていると述べました。教養が「知識」やライフハック的なものへ矮小化されつつある当時の状況に対する懸念を示したのですね。テレビが入り口になるのはよいのだけれど、たいていはその入り口だけで終わってしまう。あれから7年、入り口の数ばかりうなぎのぼりに増え、さらにその中心はテレビ番組からネット動画へと完全に移行しました。 上で挙げた青年が辿った一連のネット討論番組(あと「PIVOT」などもある)、もしくは「中田敦彦のYouTube大学」に代表される個人の解説番組、そしてそれらに刺激されるかたちで既存の大手出版社が続々と参入しつつある各種YouTubeチャンネル、いや、場合によっては「令和の虎」や「REAL VALUE」といったビジネスのプレゼンテーションをエンタメ化した番組までをゆるやかに広く包摂するかたちで、若い人たちにとっての教養の新しい現場が立ち現れています。企業発のものと個人発のものがシャッフルされて横並びになっているところもまた今っぽい。関心のベクトルがどこを向くかはほとんど偶然に左右されます。 もちろん、かつての教養人たちはそんなものは「教養」と呼ぶに値しないと唾棄するでしょう。だけれど、教養という単語から若い人たちに連想され、教養的なものとして圧倒的な支持を得ているのがこうした番組で交わされる言葉や知識であるのも事実なのです。現代の教養を考えるうえで、批判するにせよ肯定するにせよ、まずはこうしたメディア環境にわたしたちが囲まれていることを押さえておく必要があります。 「全体」へのあきらめ 日々、SNS経由でさまざまな情報の気配が視界に入ってきます。存在を知ったからには覗き見たいというくらいにはわたしたちの好奇心はまだまだ生きているんじゃないでしょうか。焦燥感や義務感に駆られてあれもこれもと、ひととおりチェックせずにはいられないのが教養主義の第一歩ですから、問題はその好奇心をどう運用するかだと思います。 ただ、視界に入ってくるものが多すぎるあまり、可処分時間やタイパのことがどうしても頭をよぎってしまって、1.5倍速や2倍速で再生したり、動画内のシークバー上の山グラフを参考に世間的にリプレイ回数のもっとも多いくだりだけを観たりといった情報処理めいた視聴態度が生じます。そのすぐそばで切り抜き動画は流行している。 あらかじめ「全体」の理解があきらめられているということなのでしょう。かつての教養主義はたとえそれが幻想だろうと全体を手にする、もっといえば、この世界の真理に到達することにこそ究極的な目標がありました。だから、哲学や文学が重宝されたのです。けれども、いまはそうした全体がはなから目指されていない。 全部で256ページの本があったとします。著者の主張や結論のコアはそのなかの一部分にすぎません。あとは主張や結論にいたるエビデンスや理由づけなどの論証過程として機能します。ならば、コアだけかき集めたものが10ページになったとして、それを売ればいいではないかとなりそうですが、そういうわけにもいかない。そこだけ読んでも理解できないからです。256ページすべてとはいいませんが、そのボリュームにはそのボリュームの必然性がある。きっと。もちろん、これまでの規格化された出版ビジネスの世界では10ページでは商品になりえないから……という事情がありはしましたが、いまは措いておきましょう。 ところが、いまの消費者は、はじめからこのコアだけをよこせといってしまう。もっといえば、コアの瞬間的なインパクトだけでもちゃんと成立するコンテンツを求めているように見えるのです。 サビのよさが理解できない? ポピュラー音楽に置き換えてみましょう。本でいう主張のコアは、この場合、「サビ」にあたります。サビへとスキップして、そこだけ聴く人はかなりいます。サビだけの切り抜き動画も無数にある。ですが、サビしかないのなら、もはやそれはサビとして機能しません。イントロ、Aメロ、Bメロがあってはじめてサビが活きてくることをわたしたちは経験上、知っている。なにより、かつてカラオケで歌うためにこそ曲を聴いていた世代は、3分半なら3分半、サビ以外も歌う必要があり、サビ以外もきっちり聴いて覚える必要がありました。 作品という単位も、サビという概念も、いまではもう成立しないのかもしれません。受け手の視聴の環境や習性にあわせた結果、イントロどころか前奏もなしに、いきなりサビからはじまる曲も増えました。 一部分だけでもちゃんと成立するのが音楽のいいところです。ですが、全体を構造でとらえることができれば、サビのよさがいっそう際立つ。もともと、そのように曲はできている。本もそうです。全体の構造や文脈のなかでコアが理解できるようにつくられている。コアだけあってもダメなのですね。サビのみ切りとるということは、構造やコンテクストをなくすということでもあります。 教養とは、いってみれば、このサビのよさを理解したり味わったりするための「コンテクスト把握能力」じゃないでしょうか。世界の真理を探究したかつての教養主義も、個別の書物や思想を大きなコンテクストのなかに位置づけることによって「全体」を志向していました。構造をメタ的に読むことを「批評」といいかえてみてもいい。 他人との会話の場面でいえば、相手の知識や関心やリズムを適切にキャッチして、それに見合いそうな話題を自分の引き出しから選べる。しかも、その場全体にふさわしいかたちにそれらを編集できる。つまり、状況に応じて比喩や具体例をうまく使いわけることができる。教養とはそんな能力のことではないでしょうか。だからこそ、かつて、サロンや社交の場において教養が必要とされたのです。そして、ある程度は学習可能なものです。 たとえば、いま若い人たちが視聴しているネット番組についても、いい大人が激高したり喧嘩をはじめたりする場面を「やべー」とかいいながらそこだけ何度も再生するのではなく、どうやって場や空気がつくられているのか、対話がどう運んだのか、どういった言葉が選択されているのか、論争の背景にはどんな対立があるのか、たまには俯瞰する位置から批評的に眺めてみる必要があるのかもしれません。 *** 第2回『「クイズ王」は現代の教養人か? 学歴を看板に掲げる「人気クイズ番組」が浮かび上がらせた“知識”と“教養”の違い』では度重なる「クイズ王ブーム」を手掛かりに「知識」と「教養」の違いについて大澤氏が語る。 大澤聡 1978年生まれ。批評家、近畿大学文芸学部准教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。メディアの歴史やジャーナリズム、文芸に関する論考を各メディアで発表している。著書に『定本 批評メディア論』(岩波現代文庫)、『教養主義のリハビリテーション』(筑摩書房)、編著に『1990年代論』(河出書房新社)、『三木清教養論集』(講談社文芸文庫)などがある。 デイリー新潮編集部