日本建築学会賞、グッドデザイン大賞、プリツカー建築賞をはじめ数々の賞を受賞している世界的建築家・伊東豊雄氏。EXPO 2025 大阪・関西万博では、開会式が開かれたEXPO ホール「シャインハット」のデザインを手掛けている伊東氏が、現代建築のあり方を思索するエッセイ『誰のために 何のために 建築をつくるのか』(平凡社)を4月17日に上梓した。世界的建築家が見つめる建築の今、そして未来とは——。 「建築は“ない”のが一番いい」 今作のタイトル、『誰のために 何のために 建築をつくるのか』。これは、僕が普段から考えている答えのない問いです。いろいろと突き詰めていくと、結局建築って“ない”のが一番いいんですよ。今の時代、サステナビリティだとかネットゼロだとか、そういう環境に配慮した社会を作ろうとしているでしょう。 でも建築というのは、建てるにしろメンテナンスをするにしろ、どうしたってCO2が発生する。必ず自然を壊すことになります。作らないで済むなら、それが一番自然のためになる。だからいつも「因果なことをやっているな」と思っています。 でも、世の中にはあまりにもひどい建築ばかりが蔓延しているので、それよりは多少ましなことができるのではないか、と。そんな日々巡らせている思考をまとめた本です。 ひどい建築というのは、例えば今の東京で見られるような建築です。高層化に伴って、下にある住宅や雑居ビルが壊されているでしょう。そうすると、ずっと持続してきた建築の記憶、街の記憶というものが消えてしまう。それに伴って、そこにあったはずのコミュニティもなくなってしまいます。 それに、高層化するとどんどん自然から離れてってしまうから、人工環境にならざるを得ない。だから、自ずと都市は均質化していくし、膨大なエネルギーを消費するのです。 現代は人間が“住まわされている” 僕も今マンション暮らしなので、いわゆる均質空間に住んでいるんですが、実は飼っていた犬が亡くなったタイミングで改装をしようということになり、1ヵ月ほどマンスリーアパートメントを借りていた時期があったんです。そこはかなり新しくて、築60年のウチのマンションより防音も気密性もしっかりしているから、外の音が一切聞こえてこない。人の気配もしないし、隣にどういう人が住んでいるかさえわからない。 「均質空間が極限状態に至るとこういうふうになるのか」と衝撃を受けました。そこでは、生活をしているという感じが全くしなかった。ウチに戻ってきた時に、マンションとはいえホッとしました。まだ人間的だなと思ったんです。 今住んでいるマンションですら何LDKと決められていて、ここがリビング、ここがキッチン、ここがベッドルームと、その通りに住むことを余儀なくされる。おそらくタワーマンションに住んでいるような方たちは、みんな外の音、人の気配を感じないような、そういう生活をされているんじゃないかと思ったら少し怖くなりましたね。現在の建築は、利便性を追求するあまりコミュニケーションが断絶されていると思います。 よしもとばななさんの小説『もしもし下北沢』の後書きにも、雑居ビルのコミュニティが成り立っていた下北沢が再開発によってどんどんつまらない町になってしまう、と書かれていました。本当に最近は、人間が“住まわされている”という印象が強くなっています。 一方でそういう“住まわされる”環境をつくっているのも建築家。矛盾ですよね。ただ、そういう矛盾に立ち向かっていくのも大事なことだと思います。 建築の「流れ」と「淀み」を探る とはいえ、夢を描いても実現しようと思うと妥協しなければいけないことだらけ。社会に逆らったら、何もできなくなってしまいますからね。 若い頃はとにかく壁にぶつかって砕けようという気持ちが強かったけれど、年をとってくると、壁の間をすり抜けて、ある程度自分の思うことをやれるようになってはきました。そういう“技”は身につきましたが……やはり100点の建築というのは難しい。ひとつ実現すると、「もうちょっとやれたのに」と思うことばかり。「もう一度やったらもうちょっと良くなるんじゃないか」と思いながら何十年と来てしまいました。 いろいろと建築の可能性を探る中で、僕が最近いつも考えているのが、この本の中でも触れた「流れ」と「淀み」です。 自然の中には「壁」はありませんよね。壁で断絶されていない。そこにはただ流れがあって、そしてその間に淀みのような「場所」がいくつもある。その淀みのような建築を作りたいという思いがあります。 それから、先ほども言ったように、ひとつの建築を作った時、そこでできなかったことを次の建築でやりたいという思いが湧いてくるんですね。ひとつができたらまた次、それができたらまた次と、そういった川のような流れの中で、建築という淀みをいくつも作りながら、だんだん下流へ向かっていく。そんなふたつの意味合いを含んでいます。 とはいえ、壁をなくした、完全に流れの中の淀みを体現したような建築が作れるかというと、それは不可能です。画家がキャンバスを作るように、建築も自然の中にある領域を区切って、そこに作らざるを得ない。自然と全く連続しているような建築などありうるのだろうか、とずっと思い悩んでいました。 しかし、考えてみれば農業だって自然の中の一部の土地を開墾して、きちんと場所を作って、そこで栽培をしないと成り立たない。「やはり完全に自然と同化するということはありえないんだ」とようやく割り切れるようになりました。 農家の方たちが開墾した地で野菜やお米を作るように、“閉ざされた領域”の中に新しい自然、もうひとつの自然を作ることならできるはず。ですから、「領域を区切ってしまうところまではやむを得ないけれど、その中ではできるだけ壁を少なくして、建物の中に流れと淀みを作ろう」。そう考えられるようになりました。 中沢新一さんのエッセイにも、かつてチベットで寺院を作る現場に居合わせた際、幾何学的に作られた建築にもかかわらず、中に入ってみるとランプの揺らぐ光や油の匂いが別の自然を蘇らせているのを感じたということを書かれておられました。僕もそういう建築を作りたいと思ったのです。 壁のない心地よさ 実際、「せんだいメディアテーク」(宮城県仙台市)や「みんなの森 ぎふメディアコスモス」(岐阜県岐阜市)、「水戸市民会館」(茨城県水戸市)、「茨木市文化・子育て複合施設 おにクル」(大阪府茨木市)といった公共施設は、壁で「部屋」を区切らず、自由な「場所」にしたいと思って作りました。壁のない心地よさを感じ、老若男女問わず多くの方々が施設を訪れてくださっているようで、その目論見はある程度うまくいっているのかなと感じています。 特に「おにクル」では、間の壁をなるべく取り払って、空間の中に自然を再現しました。子どもたちに、原っぱの中を歩いたり走ったりしているような、自由な感覚で駆け回ってほしかった。どうしても診療室などは閉じざるを得ませんが、その部屋に至るまでに子どもの遊び場を作るなどさまざまな工夫をしました。すると、「おにクル」に用事がなくても子どもたちが毎日遊びにやって来るわけです。 面白いのは、こちらが予想もしていなかったような場所で、皆さんがいろいろな遊び方をしてくれていること。ここはこういう部屋、と区切ってしまうとそこはその使い方しかされないけれど、場所だけを用意しておくと、とても自由なんです。 (取材・文/井上華織) 伊東豊雄(いとう・とよお)/1941年生まれ。建築家。東京大学工学部建築学科卒業。主な作品に「せんだいメディアテーク」「多摩美術大学図書館(八王子キャンパス)」「みんなの森 ぎふメディアコスモス」「台中国家歌劇院」「2025年日本国際博覧会 EXPOホール」。著書に『あの日からの建築』(集英社新書)『美しい建築に人は集まる』(平凡社)『誰のために 何のために 建築をつくるのか』(平凡社)など多数 ・・・・・・ 【つづきを読む】『巨匠・伊東豊雄が語る“建築家としての使命”とは?「人に生きる力を与えられる建築に挑みたい」』 【つづきを読む】巨匠・伊東豊雄が語る“建築家としての使命”とは?「人に生きる力を与えられる建築に挑みたい」