森鴎外も受けていた「日本ではじめて行われた進化の講義」。唯一現存する学生時代の直筆ノートでわかった教官の名前

「進化は再現不可能な一度限りの現象なのか? それとも同じような環境条件では同じような適応が繰り返し発生するのか?」 進化生物学者の間で20世紀から大論争を繰り広げられてきた命題をめぐるサイエンスミステリーの傑作、千葉聡『進化という迷宮 隠れた「調律者」を追え』が発売されました。 本記事では、〈ダーウィン進化論を「化石」から実証…奇跡のような偶発性が作り出した「特異な自然の実験」とは?〉に引き続き、ヒルゲンドルフの研究について詳しく見ていきます。 ※本記事は、5月22日発売の千葉聡『 進化という迷宮 隠れた「調律者」を追え 』(講談社現代新書)より抜粋・編集したものです。 化石で描いた初めての系統樹 ベルリンに戻ったヒルゲンドルフは、再度シュタインハイム盆地を訪れて調査を行い、さらに化石を集めて、進化史の証拠を固めていった。そして1866年、ヒラマキミズマイマイ属化石の分類と進化、そして系統関係についての論文を正式に発表した。エルンスト・ヘッケルが「系統 phylogenies」という語を作った年である。 ヒルゲンドルフは論文にそれらの系統樹を添えたが、この系統樹は、彼の博士論文で推定されたものとは少し異なっていた。二つの独立した系統は、地層の最下部から産出する最も祖先的な種から分岐する形に改められていた。系統が分岐する回数は合計7回に増えた。また博士論文の図にあった雑種を示す枝はなくなっていた。 この論文は疑いなくダーウィンの進化史仮説を実証するものだった。ところが不思議なことに、ヒルゲンドルフはこれらの論文にダーウィンを引用していない。帰納法で導かれた結果であると強調したかったから、という説が有力だが、真相は不明である。 ヒルゲンドルフの論文は発表当初、ほとんど注目されず関心も持たれなかったが、ダーウィンは1869年に出版した『種の起源』の第五版と1872年出版の第六版に、ヒルゲンドルフの論文を引用した。しかしダーウィンは、その後この論文を一切引用しなかった。理由は1870年以降、ヒルゲンドルフを執念深く攻撃する二人の批判者が登場して、彼の話を信じないようダーウィンを説得し続けたからである。ダーウィンはその批判者に対し、こんな手紙を送っている。「もちろん、ヒルゲンドルフのこんなに大きな誤りが証明されたのは残念ですが、私がいつも憂慮して彼の論文を引用しなかったことは、私にとっていくらか勝手な慰めになります」。 皮肉なことに、これらの批判者はいずれもヒルゲンドルフの師と同じく、ダーウィンの進化の考えを受け入れない、種の本質主義者だった。自然選択など作用しないし、種が分岐するなど有り得ないと信じていたので、ヒルゲンドルフが系統の分岐と見なしたものを否定し、すべて初めから最後まで別の種だった、と主張したのである。 その系統樹は主要な枝の一つで、丸く平たい殻をもつ祖先から、極端に角張る殻や背の高い殻へと変化した後、再び丸く平たい殻へと戻る、"先祖返り"が起きている。これなど実際には、最初から同じ種がずっと存続しているのを見誤ったものだと批判した。 しかし1875年からヒルゲンドルフは反撃に転じた。1877年頃からは、反論のためシュタインハイム盆地で調査を行い、さらに高い精度のデータを得て、系統樹の信頼性を高めていった。 この論争を契機に、ダーウィンの進化理論を支持する研究者の間で、ヒルゲンドルフの研究が知られるようになった。その後、批判者の研究の問題も明らかになった。彼らはいったん堆積してから水流で巻き上げられ、再堆積した化石試料も使っていた。そのため化石の出現期間を誤って認識してしまっていたのである。 20世紀以降、ヒルゲンドルフの研究は、ダーウィンの進化史仮説を化石で初めて実証した歴史的な研究と高く評価されるようになった。また1866年の系統樹は、ダーウィン以降、化石記録から推定された最初の系統樹とされている(図4−3)。 グールドはヒルゲンドルフを、最初のダーウィニストの一人と呼び、「ヒルゲンドルフは1866年に今や古典となった研究成果を発表していた。そのなかにはダーウィンの新しい自然の秩序を表す最初の系統樹を含んでいた」と述べている。 鴎外のノート 「森鴎外がフランツ・ヒルゲンドルフから進化の講義を受けていた」 明治の文豪と生物進化の思いがけぬ邂逅の話を私に聞かせてくれたのは、矢島道子である。1990年代半ばのことであった。矢島は、私が過ごした研究室の先輩である。たまたま会合の場で矢島に声をかけられ、このとっておきの発見を教えてもらったのだ。 介形虫(微小な甲殻類の一群)の研究者として知られていた矢島は、博学多才で、たまに会うといつも斬新な話で楽しませてくれたのだが、そこで明かされた秘話はひときわ鮮烈だった。 ヒルゲンドルフは1873年から1876年まで、「お雇い外国人教師」として来日し、東京医学校(東京大学医学部の前身)予科で教鞭をとっていた。日本での滞在中、彼は魚類や貝類など、さまざまな生物を採集し、ベルリンに送った。学名を Vargula hilgendorfii と命名された発光する海産の介形虫、ウミホタルもその一つである。 ウミホタルの原記載標本を探していた矢島は、ヒルゲンドルフの採集標本が収蔵されているベルリン自然史博物館を訪れた。そこで保管されている大量の日本産標本を見た矢島は、標本を日本で展示し、採集に協力した明治の人々の努力をしのぼうと、標本の里帰り展覧会を企画したのである。 その準備のため、ヒルゲンドルフの足跡を追い始めた矢島は、ダーウィニストの彼なら日本で進化の講義をしていたのではないか、と思いついた。それまで日本で最初に進化の講義をしたのは、1877年に米国から東京帝国大学に招かれたエドワード・シルベスター・モースだと信じられていた。もしヒルゲンドルフが学生たちに進化を教えていたのなら、この定説は覆される。 そこで矢島が出会ったのが、文京区立鴎外記念本郷図書館(現・文京区立森鴎外記念館)に一冊だけ保管されていた、森鴎外のノートだった。東京医学校の学生だった鴎外は、ヒルゲンドルフの講義を受けていた。鴎外は火事で学生時代のノートの大半を失ったのだが、そのノートが一冊だけ焼失を免れ、残っていたのである。 ノートにはヒルゲンドルフの博物学の講義が、ドイツ語でまとめられていた。そこにはヒルゲンドルフが、ダーウィンの進化論を説明し、シュタインハイム盆地のヒラマキミズマイマイ属化石の進化を紹介したことが記されていたのだ。鴎外はノートに、ヒラマキミズマイマイ属の形が時代とともに変化していくことを示すスケッチも書き残していた。 矢島の仮説は鴎外のノートで裏付けられた。モースよりも前にヒルゲンドルフが日本で進化の講義をしていたのだ。ヒルゲンドルフの講義が、日本で最初に行われた進化の講義だったかどうかは分からないが、信頼できる証拠が残るものとしては、今のところ鴎外のノートが最古の記録であるという。 日本でヒルゲンドルフが残した業績は、魚類学への貢献のほか、江の島の土産物店で生きた化石と呼ばれる巻貝、オキナエビスを見つけ、新種として発表したことが知られている。他に陸貝なども採集し、和名にもその名が残っている。日本を去りドイツに帰国したのちも、ヒルゲンドルフはヒラマキミズマイマイ属の化石を追い続けた。 彼のライフワークの場であったシュタインハイム盆地は、数十万年以上にわたり隔離された湖であった。それは隔離された島と同じ、理想的な自然の実験場である。ヒルゲンドルフは、バミューダや小笠原と同じく、単純な閉鎖系の固有生物を対象に、つまり理想的な自然の実験場で系統が分岐する歴史を確かめたと言える。 その歴史では子孫種が "先祖返り"していた。歴史の繰り返しである。これが確かに同じ大進化の繰り返しなら、「調律者」の正体に迫れるかもしれない、とっておきの「進化のパーツ」と言えるだろう。 だが、ここで少し注意が必要だという話をしたい。「進化のパーツ」には、時に偽物が混ざっていることがある。特に形の進化は要警戒である。進化のように見えるが、実は進化ではないというフェイクが、たまに紛れ込んでいるのだ。 * さらに〈もし時間が巻き戻ったら、人類は似ても似つかぬ生物になるのか? それとも代わり映えしないのか?〉では、「進化」をめぐる、生物学者たちの大論争について詳しく見ていきます。 【つづきを読む】もし時間が巻き戻ったら、人類は似ても似つかぬ生物になるのか? それとも代わり映えしないのか?

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