【知られざる歴史ミステリー】なぜ中国は「諸葛孔明の出師表」の拓本を、「東條英機」に贈呈したのか?

「三国志」は日本でも人気が高く、有名作家によるバージョン、漫画版の他、「パリピ孔明」などという番外編まで広く読まれている。  戦時中には、中国側から時の日本国首相・東條英樹に「三国志」で知られる諸葛孔明の拓本が贈呈されたこともあるという。渡したのは南京政府首班の汪兆銘。  なぜそんなプレゼントをしたのか? 【写真を見る】「東條英機」に贈呈した「諸葛孔明の出師表」の拓本に忍ばせたメッセージとは  この謎に、近代史家で駒澤大学教授の熊本史雄さんが迫る。以下、新刊『外務官僚たちの大東亜共栄圏』から、一部を再編集して紹介する。  *** 東條英機への贈呈品  大東亜会議(1943年11月5日・6日開催)への出席を控え、南京政府首班の汪兆銘(おうちょうめい)が来日したのは、会議開催の4日前、すなわち1943年11月1日のことだった。このとき、汪は首相の東條英機に手渡すべく、ある贈呈品を持参していた。東條に手渡されたのがいつだったのか、詳しい時日は、残念ながら不明である。だが、それはたしかに手渡されたのだという。 東條英機、汪兆銘  汪兆銘が持参し東條に手渡したのは、出師表の拓本だった。出師表とは、出陣の際に皇帝に差し出す上奏文を意味する。歴史上著名なものは、三国蜀の諸葛亮(字は孔明、181〜234。以下、字の孔明を用いる)が皇帝の劉禅(劉備の子、蜀の後主。207〜271、在位223〜263)に上奏したものであり、ふつう出師表と言えば、孔明の作品を指している。 【国際派エリートたちは、どこで道を間違えたのか?】日露戦で満蒙権益を獲得した日本は、その維持を最重要課題として勢力拡張に舵を切る。だが国益追求に邁進する外務省は、次々と変化する情勢の中で誤算を重ね、窮地を打開するため無謀な秩序構想を練り上げていく。小村寿太郎から幣原喜重郎、重光葵まで、国際派エリートたちが陥った「失敗の本質」を外交史料から炙り出す 『外務官僚たちの大東亜共栄圏』  ここでは、東亜の新たな盟主たらんとする東條を劉禅と見立てた汪兆銘が、自らを孔明に擬(なぞら)えて出師表の拓本を贈ったのではないか、という話を紹介したい。 二つの出師表  現存する孔明の出師表は2通ある。第一に、建興5年(227年)、北伐(魏を討つこと)のため漢中(陝西省漢中市一帯)に進駐する際のもの。第二に、翌6年(228年)春の第1次出兵が街亭の敗戦によって頓挫した後、同年8月、呉の陸遜(183〜245)が石亭(安徽省安慶市)で魏の曹休(?〜228)を破ったことを承け、同年11月、再度出兵する際のもの(陳倉城を攻めるが、補給が続かずに撤退)。前者を「前出師表」、後者を「後出師表」という。  前出師表は、陳寿(233〜297)の『蜀志』巻五・諸葛亮伝(本コラムでは『三国志』蜀書を『蜀志』、同上・呉書を『呉志』と表記する)の本文に掲載されているほか、梁の昭明太子蕭統(501〜531)『文選』、南宋の謝枋得(1226〜1289)『文章軌範』などにも収録され、孔明の真作と考えられている。  かたや、後出師表は、『蜀志』諸葛亮伝の本文には載録されず、南朝宋の裴松之(372〜451)の注に引用された、習鑿歯(東晋の人)『漢晋春秋』の佚文(いつぶん)として伝えられている。さらに裴松之によれば、陳寿によって編纂された『諸葛亮集』には見えず、呉の張儼が著した『黙記』を出典としているというのである。したがって、古くから偽作説が根強く、清朝考証学者の間でも、何しゃく(1661〜1722)『義門読書記』は孔明の真作とするが、銭大昭(銭大きんの弟、1744〜1813)『三国志弁疑』、林国賛(清末の人)『三国志裴注述』などは偽作説を唱える。  さて、汪兆銘が持参した拓本は、帙(ちつ)に収められた2冊の帖(じょう)に、前出師表と後出師表に分けて収納されている。帙および帖に表題はなく、帖は各々20幅、合わせて40幅からなる。帙の大きさは縦65cm、横36.5cm、帖は1幅が縦65cm、横72cmである。拓本の本体部分はバラツキがみられるが、おおむね縦56cm、横64cmほどの範囲に収まっている。この拓本の最大の特徴は、朱墨で採られていることであり、あまた伝わる出師表拓本のなかでも異彩を放っている。拓本を筆者とともに調査した石井仁によれば、「後出師表」の方は、南宋の岳飛(字は鵬挙、1103〜1141)が書写した、彼の直筆と伝えられる作品だという。 汪兆銘の“最後の賭け”  それでは、なぜ汪兆銘は、大東亜会議へ参加するタイミングで出師表の拓本を特別に制作し、それを東條に贈ったのだろうか。  汪兆銘が出師表の拓本を携えて来日したのは、汪が南京政権を発足させ、「善隣友好、共同防共、経済提携」のスローガンを掲げて政権運営に当たるも、事実上の傀儡政権に転落していった時期である。かつては国民党の要職を占め、蒋介石と並び称されるほどの政治的位置を占めた汪だったが、西安事変(1936年12月、張学良らが内戦停止・一致抗日を要求して、蒋介石を逮捕・監禁した事件)後、時代に逆行する反共主義を貫くあまり、党内での権威を次第に失っていった。「漢奸」との誹(そし)りを受け、政治家生命の危機に陥っていた汪兆銘には、新たな東アジア秩序の実現を謳う大東亜会議にすがる道しか、このとき残されていなかったのである。  前出師表には、孔明が若き君主である劉禅を思う心情が綴られ、自分が出征中に頼るべき優秀な臣僚の名を挙げ、さらに後漢が衰退した原因はそうした賢臣を用いなかったからだとも述べられている。汪が望んだのは、かつての劉備のような智将として東條があること、そして優秀な人材──汪自身を含む──をアジア諸国から広く募ることだったのではなかろうか。であるならば、贈呈された拓本は、そうした汪のメッセージが込められた“最後の賭け”だったということになる。  孔明が前出師表を劉禅に上奏したのが、蜀の建興5年(227年)のこと。それから実に1700年あまりの長大な時を経たこのとき、汪兆銘は、新たな東アジア秩序を模索する大東亜会議の高邁な理念のなかに、出師表における孔明の精神を見いだし、それを東條へのメッセージとして忍ばせて伝えようとしたのではなかろうか。  拓本を受け取った東條が汪の忍ばせたメッセージを受け取ることができたのか否か、それは今となっては知る由もない。いずれにせよ、汪兆銘は、“賭け”に敗れた。出師表の拓本に乗せた、汪の淡くも沈痛な願いもまた、大日本帝国の崩壊とともに、はかなくも消え去ったのだった。  関連記事【やはり「伊藤博文」は頭が良かった! 日露戦勝で浮かれる日本政府に提出した「意見書の内容」】では、もし伊藤が1909年に暗殺されなければ、その後の日本の運命は大きく変わったかもしれないと思わせる史実を紹介。  また、関連記事【「優秀な同期との出世争い」に敗れた官僚が、「歴史に残る名宰相」の地位を手にするまでの「大逆転劇」】では、外務省出身の官僚が総理大臣の地位まで上り詰め、戦後日本を代表する名宰相として知られる吉田茂の華やかなイメージとは裏腹な外務官僚時代からの大逆転劇を紹介する。 ※本記事は、熊本史雄『外務官僚たちの大東亜共栄圏』(新潮選書)を基に作成したものです。 デイリー新潮編集部

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