この世界には「移動できる人」と「移動できない人」がいる。 日本人は移動しなくなったのか? 人生は移動距離で決まるのか? なぜ「移動格差」が生まれているのか? 注目の新刊『移動と階級』では、通勤・通学、買い物、旅行といった日常生活から、移民・難民や気候危機など地球規模の大問題まで、誰もが関係する「移動」から見えてくる〈分断・格差・不平等〉の実態に迫っている。 (本記事は、伊藤将人『移動と階級』の一部を抜粋・編集しています) 「移動格差」とは何か? 本書は、これまで十分な議論がなされていないが、今後ますます重要性が高まると考えられる一つの概念を提示したい。「移動格差」である。 本書では、移動格差を「人々の移動をめぐる機会や結果の格差と不平等、それが原因で生じるさまざまな社会的排除と階層化」と定義する。「人々の〜」としているが、これはモノや情報の移動の格差を扱わないということではない。モノや情報、お金も多くの場合、人の行動と密接に関連しており、考えるべき重要さは変わらない。また、一度きりでなく、不平等な差が継続的かつ一定の固定性をもったとき、移動格差はより顕著になる。 ここで、「格差」という言葉についても説明しておきたい。 私たちは格差という言葉を使うとき、「そもそも優劣・序列づいた人間観を前提にして、『分け』、『分かった』気になっていないか(勅使川原:2025)」という点に、十分気をつける必要がある。なぜなら、格差という言葉はさまざまなものの「違い」や「優劣」を本来的に意味するからである(吉田:2025)。 そのため本書では、私たちが移動をめぐり無自覚に「格」付けたり、「分け」たりするときの前提となるものの見方や考え方自体を、できる限り再検討し議論していきたい。また、「格差」と、本来的には平等であるべきものが、不均等な状態にあることを意味する「不平等」という言葉を併記することで、移動をめぐる論点の“幅”を示せればとも考えている。 お金が移動に与える影響 2025年度の大学入学共通テスト国語(現代文)に登場し、本書でも度々登場することになるイギリスの社会学者ジョン・アーリによれば、いま、移動をめぐる社会的な排除によって「アクセス」の貧困が生まれている。また、あらゆる移動は経済資本を必要としており、経済的側面が社会的平等に対する最大の制約条件になっている(Urry:2007)。要するに経済的な豊かさと移動をめぐる格差や不平等は、密接に関連するというわけだ。 移動が経済資本、つまりお金を必要とするのは、自動車やタクシーなどを所有したり利用したりするためであり、スマートフォンやPCの所有と利用を通してあらゆるものとの接点をもつためであり、鉄道や飛行機などによる旅行や留学、出張のためのチケットを買い乗り場に行くためであり、友人や家族知人・職場から離れた仕事仲間に会うためである。 お金があるほうが移動しやすく、お金がないと移動がしづらい--私たちはそんな社会を生きている。所有しているお金の量が移動の機会や可能性を左右するというわけである。 この他にも、移動を伴うアクセスの貧困には、身体的側面、組織的側面、時間的側面といった要素が関係する。 身体的側面には、身体に何らかの障害があることで自転車や自動車を運転できなかったり、長距離を歩くのが辛かったり、街なかの段差を他の人と比べて困難に感じたりといったことがある。 組織的側面でイメージしやすいのは、都市と地方の差である。3分に1本電車やバスが来る大都市と、私の地元のように町内に駅がなかったり、最寄り駅まで歩いて1時間近くかかったり、土日になるとほとんどバスが走らない路線があったりといった地域では、移動を支えるインフラや安心安全な移動システムには大きな差がある。 さらに、家庭内のスケジュールや役割、日々行わなければならない家事育児とのバランスのなかで、希望する時間に移動ができないといったこともあるだろう。地方のバスや電車の例も、本数と間隔の広さに着目すると時間的側面ともいえる。 本記事の引用元『移動と階級』では、意外と知らない「移動」をめぐる格差や不平等について、独自調査や人文社会科学の研究蓄積から実態に迫っている。 【つづきを読む】この世界には「移動できる人」と「移動できない人」に大きな格差があるという「深刻な現実」