「若いうちの苦労は買ってでもしろ」は令和では死語なのか 養老孟司さんが「貧乏暮らしの効用」を語る

 日本が、あるいは日本人が貧しくなったということは近年よく指摘されるところだ。その文脈で用いられるデータの一つとしてパスポートの保有率もある。外務省の発表によれば、昨年末時点での国民のパスポート保有率は2割未満。これはアメリカや韓国を大きく下回るものだという。 【写真を見る】養老孟司さんが「大臣でも務まる」と評した漫画家  旅行業界が危機感を訴えている「若者の海外旅行離れ」という問題については、データを冷静に見る限り少し大げさだという捉え方もあるものの、円安によって日本人の海外旅行、生活が苦しくなっているのは事実。  大抵の娯楽はヴァーチャルも含めれば国内で味わえる。外国語を学ばなくてもスマホが通訳してくれる。そんな時代に苦労してなお海外で暮らす必要なんかない。そのように考える若者が増えても不思議はない。 「若いうちの苦労は買ってでもしろ」なんて物言いは死語になって久しいが、養老さんの意見に耳を傾けてみよう  『バカの壁』で知られる養老孟司さんは、それでもなお、若いうちのさまざまな体験や苦労をすることには「効用」がある、と説く。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」なんて物言いは死語になって久しいが、養老さんの意見に耳を傾けてみよう(以下、養老孟司著『人生の壁』より抜粋・引用)  *** 貧乏は人を育てる  一般論として言えば、若いうちにはいろいろな体験をしておいたほうがいいのはたしかです。実際に体を動かしていろいろな人と会う。若い時から外国に出て経験を積んでいた人に会うと、その意義がよくわかります。 生きていくうえで壁にぶつからない人はいない。それをどう乗り越えるか。どう上手にかわすか。「子どもは大人の予備軍ではない」「嫌なことをやってわかることがある」「人の気持ちは論理だけでは変わらない」「居心地の良い場所を見つけることが大切」「生きる意味を過剰に考えすぎてはいけない」——自身の幼年期から今日までを振り返りつつ、誰にとっても厄介な「人生の壁」を越える知恵を正面から語る 『人生の壁』養老孟司  知人の中では、漫画家のヤマザキマリさんがその代表でしょうか。大概のことに応用が利く力を持っているように感じます。ヤマザキさんは漫画を描いたり、文章を書いたりするのが仕事ですが、おそらく他のことを任せても何とかなるのではないかという印象を受けます。極端にいえば、大臣でも務まるのではないかと思います。スキルを超えた力を持っている。  ただ外国に行けばいいというものではありません。英才教育の一環としてとか、語学留学でとか、そういうものはここでいう体験とは少し異なります。  親がお膳立てしたレールに乗って行くのでは意味がありません。  ごく簡単にいえば、身一つの生活をしたか、貧乏体験をしたか、というあたりが一つのポイントになるのではないでしょうか。  ヤマザキさんがエッセイなどで綴っている体験談にはすさまじいものがあります。ある時、ホームレスが彼女の家のドアを叩いて、物乞いをしようとした。けれども出てきた彼女を見て、同業者だと思って黙って帰ったのだそうです。  私の言っている体験とはこういう生活を送ることです。もちろん、無理をして貧乏暮らしをせよという意味ではありません。 引き揚げ経験者は大人だった  戦後、300万人ほどの民間人が大陸から引き揚げてきました。この人たちは相当な苦労を海外でしてきました。最低の生活を基本として考える習性が身についています。彼らが戦後の社会に与えた影響は大きいのではないでしょうか。  最初に旧ソ連軍が入ってきて、続いて蒋介石の国軍がやってきて、続いて中国共産党の軍が入ってきた。次々支配者が替わっていくのを見ながら、日常の生活を敵国で維持しなければいけない。もちろん引き揚げにも備える。帰れない人も目の当たりにする。こういう人たちは国家というものについての考え方も、日本にずっといた人と同じはずがありません。  それがある時期に一気に300万人も帰ってきたのだから、日本の社会に何らかの影響を与えないはずがない。  医学部生の頃、こんなことがありました。自治会の人間がある問題について「みんなでデモに行こう」とアジっていた。「アジる」というのは死語かもしれませんが、アジテーション(扇動)をしていたわけです。  それに対して、ある学生が立ち上がって、そんなことをしても、かくかくしかじかで意味がないということを説いた。何とも大人の意見だなあと感心しながら聞いていました。みんなも静かに聞いていました。  要はある種の頭で考えた理想、理屈を言う人に対して、冷や水をかけた。この人は学生といえども、すでに世間がわかっていたのでしょう。あとになって、彼が引き揚げ者だと知り、「なるほど、だからああいう風に振る舞えたのか」と納得したものです。  難しいのは貧乏すればいいというものでもない点です。苦労も同様です。貧乏も苦労も、あまり身についてしまうと良くない。  また、貧乏と貧乏くさいのとは別物という気もします。このあたりは、どこが分かれ目なのかはわかりません。  ***  養老さんが述べている通り、無理に貧乏暮らしをする必要はないだろう。また、国が貧困対策、経済対策をおろそかにすることは許されまい。一方で、その種の苦労をしたことがない人たちが社会の上層部を占めていたり、政策を考えていたりするという点に不満を抱く人も多いようである。 養老孟司(ようろうたけし) 1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。89年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。2003年の『バカの壁』は460万部を超えるベストセラーとなった。ほか著書に『唯脳論』『ヒトの壁』など多数。 デイリー新潮編集部

もっと
Recommendations

【速報】「レーサム」創業者・田中剛元会長(60)と覚醒剤所持か 大学生の女を覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕 警視庁

東京・千代田区の不動産会社「レーサム」の創業者で元会長の男が、覚…

【速報】“野球賭博”で33人を書類送検 2023年の野球大会で金銭賭けた疑い《新潟》

新潟県警は16日までに、“野球賭博”をしたとして新潟県や沖縄県、福…

フジ・メディアHD新取締役候補公表へ SBIの北尾会長らを除外方針

フジテレビの親会社のフジ・メディア・ホールディングスが、6月の株主…

【速報】林官房長官「バチカンとの関係を総合的に判断」 ローマ教皇レオ14世の就任式に自民・麻生太郎最高顧問の派遣を決定

政府は16日、閣議を開き、ローマ教皇レオ14世の就任を祝うミサに、自…

消防職員が男性の頭を殴り逮捕「撫でただけで殴打していない」飲食店でトラブルか 北海道釧路市

北海道・釧路警察署は2025年5月16日、暴行の疑いで釧路市に住む地方公…

菅野智之、自己ワースト4失点も修正重ね今季最多103球…「悲観するような内容でもない」

【ボルティモア(米メリーランド州)=平沢祐】米大リーグは15日…

衝撃の60%OFF──JR東日本、初の「新幹線タイムセール」 背景に物価高と閑散期? 狙い目の路線は【#みんなのギモン】

JR東日本が初めて実施する、新幹線のタイムセールが話題になっていま…

トランプ大統領の中東・UAE訪問にソフトバンク孫正義氏も同行 米・UAEで大規模なAI拠点開発へ オープンAI・エヌビディアCEOらも

トランプ大統領の中東歴訪に合わせソフトバンクグループの孫正義社長…

連邦最高裁で審理 米国生まれの子どもへの国籍付与廃止 トランプ氏の大統領令めぐり 反対派は「憲法違反」と抗議

トランプ大統領が署名したアメリカ国内で生まれた子どもに自動的に国…

オランダに春を告げるホワイトアスパラガス…季節限定の甘みと味わい

ブリュッセル支局秋山洋成オランダの冬空はどんよりとし、日照が…

loading...