間違えて入った研究室で「人生が一変」…「化石カタツムリの進化研究」はどのように始まったのか

「進化は再現不可能な一度限りの現象なのか? それとも同じような環境条件では同じような適応が繰り返し発生するのか?」 進化生物学者の間で20世紀から大論争を繰り広げられてきた命題をめぐるサイエンスミステリーの傑作、千葉聡『進化という迷宮 隠れた「調律者」を追え』が発売されます。 本記事では、〈進化学者が無人島で目撃した「進化の現場」…「悪夢のような世界」をつくりだした「魔物の正体」〉に引き続き、「進化のパーツ」を探す旅が始まった経緯を見ていきます。 ※本記事は、5月22日発売の千葉聡『 進化という迷宮 隠れた「調律者」を追え 』(講談社現代新書)より抜粋・編集したものです。 偶然の連鎖 まずはこの"旅"が始まった、そもそものいきさつを説明しよう。 幼少時から昆虫類の探究に大半の時間を費やし、生物学者に俺はなる、と決めたはずが、色々事情があって大学入学後に予定が変わった。誘われてつい入部した、とある運動部で麻雀を知るという不運もあったが、どの学部・学科に進学するかを入学後、ほぼ学業成績のスコアと順位で決めるという、最低な仕組みの大学だったのも一因である。 大学はレジャーランドだとか言って私を油断させた連中は、万死に値すると思った。そこは競争に負ければずるずると滑り落ち、行き場を失う蟻地獄のような世界だったからだ。 先に気づかなかったのが悪いと言われればその通りだが、学習とは本来楽しんだり、楽しむ力を得るためのものと思う私にとって、そこに行けば本物の学問に会えると信じていた大学でさえ、学習が競争に勝つための道具でしかないという事実は耐え難いことだった。 痛恨のミス それでも折れた心を何とか支え、麻雀が誘う堕落への呼び声を辛うじてかわしつつ、二年次に獣医学のコースに内定した。決まってみれば趣味と実益の両立が期待できる悪くない進路である。ところが痛恨のミスでご破算になった。 当時この大学のカリキュラムには、進級に合格点が必須なのに、万一の救済措置、つまり再試がない語学の定期試験なる野蛮な制度が存在した(今もあるかもしれないが)。内定した進学先向けの授業も始まった二年次後半の学年末にも、その試験は存在した。絶対に落とせぬ単位を翌日に控え、寝坊を防ぐため万全を期して徹夜を試み、運悪く失敗。目が覚めたら赤い太陽が西にいたのである。 眠らなければ寝坊も遅刻もしないという理論は正しかったはずだが、そのロジックを実装する手段に、運動部の面々との徹夜麻雀を採用したのが誤りだった。 もう一度あの前日に戻るべく、万に一つのタイムスリップを期待してしばし放浪の旅に出てみたが、現実の時間は巻き戻らない。内定は取り消し、同じ学年のやり直しである。 ただ、当時は学費が今の半額以下で、高収益のアルバイトも多く、経済的な自立が可能だった。今の大学は学費がべらぼうに高額なうえに失敗や堕落に不寛容なので、当時とは事情が違う。もし私が今の時代の大学生なら、この旅の話はここでおしまい、はい解散、となるはずだが、当時は脱線した者の息の根を止めない雑さもあった。 時間的にほぼフリーとなり、学費と生活費を超える額を稼いで貯金できたので、運動部の活動以外は趣味で生物学の教科書や人文書に散財して読み耽ったり、麻雀に溺れたりしつつ、無気力にだらだらと過ごした。 リセットされた内定先を再び志望するのは、いくつかの理由で難しくなった。トラウマ体験も蘇るし、もはや生物系の専門家を目指す意志は消えていた。生物学は趣味と割り切り、あえて生物学とは全く関係のない分野に進もうと決めた。 それで就職先の業種の幅が広いという話を聞いて、何となく地理学系の学科に進学し、必要最小限の学習ながら地形学を課題に選んで、三年生の後半には卒業研究を始めていた。段丘や砂丘の分布や堆積物などの調査から地殻変動を推定するという、地質学に似た研究だが、いわゆる"指示待ち族"と化していた私は、教員に与えられたテーマで教員の指図通りにデータをとる作業をした後は、自由という名の放置を堪能しただけであった。 友人の思いつきに乗った「大学院受験」 しかし、そう悪い時を過ごした記憶はない。無駄に長く在学している学生が教員たちから相手にされるはずもないのだが、無言のお荷物扱いにも、理不尽な怒声にも、心を麻痺させておけば安らかに過ごせるものだ。 三年生の終盤には就職活動が始まり、何となく出版社に関心が湧いて、講談社などの会社説明会に出てみたが、参加者は鬼殺隊の選別試験の志願者みたいな百戦錬磨の強者ばかりで、私にはとうてい無理だとわかった。運動部で獲得した無駄な筋肉のパワー以外、大学で自分が何を身に着けたのか、自分の特徴は何なのか、自信をもって語れないことに、ふと切なさを覚えた。 そんなモヤモヤを抱えていた私が「こんな手もなくはない」という、友人の思いつきに乗って試してみる気になったのが大学院受験だった。大学でやるのは学問の基礎まで、実は学問が始まるのは大学院からだ、と言う。幸い留年時に蓄えた貯金もある。ただし、低評価を挽回できる見込みの薄い自学科ではなく、他学科や他大学の大学院である。 卒業研究の内容に近い分野は構造地質学。そこで私は、地質学科の修士課程を受験してみようと考えた。四年生になって間もない春のことである。今思うと、魔が差したとしか言いようがない企てであった。 大学院入試を受けるには志望する研究室を決め、そこの教員の承諾を得なければならない。私は挨拶と見学を兼ねて、地殻や岩石の運動・変形を扱う構造地質学の研究室を訪ねることにした。志望理由と動機を考え、説明の練習もし、準備は万全。 とはいえ、そこの教員の講義を受けたこともなく、今と違ってウェブサイトもないので、教員の名前と研究内容と研究室の部屋番号しかわからない。教員の顔も知らず、電話番号を調べるのも面倒だったので、アポも取らず、いきなり研究室に出向いて部屋の扉をノックした。 すると扉を開けて教員が出てきたので、大学院受験でこの研究室を志望したいので挨拶に来た旨を伝えた。すると教員は、初対面の私を部屋に迎え入れ、椅子に座るよう勧めた。そしてテーブルを挟んで私の正面に座り、ふうとタバコの煙を吹きつつ横目で私を見ると、さっそく説明を始めた。 は?動物?古生物? 「うちでは動物を対象に、生物学としての古生物学をやっている」 は?動物?古生物? 卓上には貝殻や化石がいくつも並んでいる。棚に目をやると、置かれているのは海産動物の液浸標本だった。そこで私は初めて部屋を間違えたことに気が付いた。うっかり化石を研究する古生物学の研究室に来てしまったのだ。誰この人。 今さら間違えましたとは言えない。腹を決めると、とっさに思いついた志望理由を話した。古生物学の知識はないが、生物学が好きな旨を素直に伝えた。運良くそれが功を奏したらしい。私がアポも取らず突然現れたにもかかわらず、名も知らぬその教員は、「試験、頑張りなさい」と私を励まし、楽しみにしている、という言葉をかけた。 それまで期待された記憶がない私は、その魔法の言葉を聞いてすっかり調子に乗ってしまった。後から考えると、この言葉は多分、その年の古生物学研究室の受験志望者がたまたま私一人しかいなかったという特殊事情を反映していただけなのだが。 もっとも入試は面接もあるが、合否は点数で決まるので、いかに志望研究室の教員が受け入れに前向きでも、試験が有利になりはしない。学習の努力がものを言う。しかも当時の大学院入試は募集定員に意味がなく、仮に得点が受験者中で最上位でも、合格基準に満たなければ不合格となる。従って他者との競争ではない。戦う相手は自分自身である。 入試は四年生の夏である。当時の筆記試験は、英語と第二外国語に、理科は地質学ともう一科目。私が選んだのは生物学。しかし専門科目である地質学の成績が合否を左右するのは自明だったので、生物学は捨てて、地質学の学習に全力を注いだ。選択と集中である。試験までの三ヵ月、生まれて初めてとも言える密度の猛勉強であった。 さて、結論から言うと試験に合格はしたのだが、勉強したはずの地質学の出来が非常に悪く、合否判定会議で問題になったという。しかし生物学の成績がなぜか飛び抜けて良かったため、古生物学志望なら、それで合計点が合格基準に達しているのであればよいのでは、ということで容認されたそうである。 とっておきの研究 1985年の夏、合格した私は挨拶のため、古生物学の教員、つまり我が師匠の部屋を訪ねた。すると待ってましたとばかり、進学時までに読んでおくようにと何冊もの洋書を渡された。集団遺伝学、進化生物学、生態学や統計解析の教科書であった。 卒業研究の方は早々に目途を付けた。少なくとも言われたことはしたし、否応なしにとはいえ地形学の基礎は学んだ気がしたし、今後何かに役立つわけでもないし、放置だし、もういいやとばかり、師匠に渡された教科書を一日中読んでいた。初めは英文のせいでかなり苦しんだが、一旦慣れると、読める、読めるぞ、と夜も眠れなくなる面白さだった。 感謝すべきことに学部の教員はそれを許容してくれた。私の知らぬ所で諸々あったのかもしれないが。 しばらくして再び師匠に会いに行くと、修士課程で行う研究の対象を何にするか、という話になった。 ちなみに師匠の研究対象は化石二枚貝である。特にヒヨクガイという小さなホタテガイのような貝化石が持つ変異の進化を示した研究で世界的に知られていた。分子進化の中立説を唱えた木村資生とも交流があり、遺伝学と古生物学を融合した古遺伝学と呼ぶ分野を提唱していた。スタッフの一人は古生代から生き続けているウミユリの進化を研究し、先輩の一人は、ニッポニテスなど、異常巻きアンモナイトと呼ばれる奇妙な形を持つアンモナイトの進化を、計算機シミュレーションで再現していた。 彼らがどんな問題意識の下に、どう研究計画を立て、どうそれを実現しているのかを知り、どれも素晴らしく、魅力的に感じた私が自分の研究対象に思い浮かべたのは、アンモナイトやトリゴニア、三葉虫など中生代、古生代の化石動物、あわよくば恐竜。古生物学を専攻するのだから当然であろう。できれば母岩が硬くてハンマーで叩けば火花が出るような化石がよい。ところが師匠の提案は、「カタツムリ」であった。 は?かたつむり? 師匠は私にこう尋ねた。 「スティーヴン・ジェイ・グールドを知っているだろう」 誰?という私の反応に少し苛立ったらしく、師匠の解説が始まった──よくわからないが、何か凄い人らしい。ハーヴァード大学比較動物学博物館の古生物学者で、師匠の古い友人だという。グールドの師ノーマン・ニューウェルを通じて知り合ったそうである。師匠は1975年、グールドの研究室に2ヵ月間寄留し、親交を深めたときの話をした。 「グールドの自宅に招かれたときには、お礼にキッチンを借りてテンプラを揚げた」 その話必要?だが、ベテランが昔話を始めたら、聞き役に徹するのが私の処世術だったので黙っていた。すると師匠は当時グールドと交わした議論のことを話しだした。 「グールドのドクターペーパーはバミューダの化石カタツムリの進化研究なのだが」 バミューダとは大西洋に浮かぶ絶海の孤島である。隆起石灰岩でできたこの島には、更新世末期(30万年前〜1万年前)に形成された砂丘があり、そこからカタツムリの化石が出るという。グールドは大学院生時代にその研究を行ったのだ。 「その話をしていた時に、太平洋なら化石カタツムリの出る島があるのではないか、とグールドが言いだしたから、そういえば小笠原でカタツムリの化石が出ると教えたら、それは面白い、研究したほうがよい、という話になった」 「これはとっておきの研究テーマで、自分が手掛けるつもりでいたものの、手をつけないまま10年たってしまった」。それで私に、やってみてはどうか、というのである。 師匠はこれを貸すから読めと言って、硬めの表紙がついた分厚い冊子を私に手渡した。 「タイトルが、"進化の小宇宙"。面白いだろう?」 それはグールドが1969年に発表したバミューダの化石カタツムリ──ポエキロゾニテス属の論文で、彼の博士論文に少しだけ手を加えて出版したものだった。 結局私は、師匠とグールドが思いついた対象で研究をすることになった。特に深く考えたわけではない。日米それぞれを代表する一流の古生物学者が共同で思いついたテーマなら、外れはないだろうと思っただけである。 * さらに〈もし時間が巻き戻ったら、人類は似ても似つかぬ生物になるのか? それとも代わり映えしないのか?〉では、「進化」をめぐる、生物学者たちの大論争について詳しく見ていきます。 【もっと読む】もし時間が巻き戻ったら、人類は似ても似つかぬ生物になるのか? それとも代わり映えしないのか?

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