演劇の起源はこんなところにあった…古代ギリシャのディオニソス信仰が生み出した「俳優」という「生業」

人類は進化の過程で共感力を獲得し、言語を発達させてきた。そのなかで生まれたのが歌やダンス、演劇だった。そうして演劇は人と人とを繋ぐ芸術となっていった。戦争が止まらないこの時代にこそ私たちはもう一度立ち止り、人類の来し方に思いを馳せたい。群像にて連載中の『ことばと演劇』では、劇作家の平田オリザが演劇の起源に迫っている。 ※本記事は群像2025年6月号に掲載中の新連載『ことばと演劇』より抜粋したものです。前回の記事はこちらです。 不思議な宗教と祭り そのころアッティカ(アテナイを中心とした地域)の谷ごとに不思議な宗教と祭りが広まっていった。 その新しい神は、トラキア(いまのブルガリアを中心とした地域)ないしはフェニキアあたりが起源とされ、その信者たちが踊りや音楽、酩酊などによって熱狂と陶酔に導かれることを特徴とした。その神の名をディオニソスと言う。 このような熱狂的な儀式は、理性的な秩序を重んじてきた他のギリシャの伝統的な神々への信仰とは対照的なものだった。前回掲げたディオニソス的なものとアポロン的なものの二項対立はここから生まれる。 三大悲劇作家の一人エウリピデスの『バッコスの信女たち』では、初期ディオニソス信仰の異端性が見事に描かれている。この作品では女たちが家を捨て山中で狂宴を繰り広げる。また獣を捕らえ、その生肉を食らい生血をすする。テーバイの王ペンテウスは、この信仰を既存の秩序に対する反乱、邪教と捉え弾圧する。ディオニソス神が、王権への服従よりも神への絶対的な信仰を要求した点も王の怒りを買った。おそらくこの作品は、ある種の史実とその伝承に基づいて作られたものだろう。 紀元前八世紀から七世紀にかけて、ディオニソス信仰が燎原の火のごとくギリシャ各地に広がった。このことを本稿の文脈で解釈するなら、定住型商工民たるギリシャ人は、農耕型の宗教、秩序を維持するためだけの、あるいは秩序を維持する範囲内での宗教に飽き足らなくなっていたのではないか。 ディオニソスは葡萄酒の神であると同時に豊穣と生命力の神だ。その信仰は自然の生命力や人間の生殖力を象徴するものであり、性的な要素も多く含んでいた。それ故、この神をまつるディオニソス祭の儀式でも、性的な象徴や表現が用いられることが多くあった。 先に、この信仰はトラキアないしはフェニキアあたりが起源と書いたが、私の想像では、この二つの地方の土着の信仰が各々の技術とともに流れ込んできたのではないかと考える。トラキアからは新しい農業技術が、そしてフェニキアからはワインの醸造術が。 新しい技術を持ち込んだものを神とあがめることは古代社会ではよくあることだ。私が暮らす豊岡市の出石神社には、新羅の王子であったアメノヒボコという神がまつられている。古事記や日本書紀にも登場するこの神様は「火の鉾」が語源とされる。要するにそれは、半島から鉄器をもたらした技術集団ではないかと考えられてきた。氾濫を繰り返す円山川を鉄器によって治水した集団は、当時、「神」にも見えたのだろう。 同じように、ペロポネソスの痩せた傾斜地に葡萄の木を植えた者たち、そしてそれを酒に変えていった者たちが神とたたえられた。あるいは「彼らの神」への信仰が広まったと考えてもおかしくはない。 「俳優」という制度の成立 ディオニソス祭におけるパフォーマンスは、当初は合唱隊(コロス)が歌や踊りを奉納するものだった。『バッコスの信女たち』に描かれた原始的な祈りの形態が様式化していったのだろう。初期のギリシャ悲劇は、このコロスの歌と踊りから発展したと考えられている。コロスは物語の語り手としての役割も果たしていたからだ。正確な年代は特定できないようだが、紀元前七世紀頃にアテナイを中心にこの祭典が広まっていった。 紀元前六世紀後半、すなわちこの地域にディオニソス信仰が広まってから約百数十年ののち、テスピスという人物が、コロスから独立した「俳優」という制度を発明する。 この時点では俳優は一人だったが、彼がコロスと対話することで、物語のドラマ性が格段に進化したことは想像に難くない。伝承では、テスピスは自ら脚本を書き、そして俳優として舞台にも立ったという。想像の翼を広げるならば、目立ちたがり屋のテスピスがコロスから飛び出て一人語りを始めたのかもしれない。 紀元前五三四年、アテナイ。この年から、春のディオニソス大祭の一環として、悲劇の上演が競演形式で行われるようになった。テスピスは、その初代王者に輝く。この時点ですでにテスピスが発明した「俳優」という様式は他の地域にも広まっていたはずだ。これからも見ていくように、天才が発明した様式は、一度生み出されれば、そこからの模倣、普及はあっけないほどに速い。 おそらくディオニソス祭におけるパフォーマンスも、古代オリンピックと同様に村同士の対抗戦、歌合戦のようなものが先んじてあったのだろう。テスピスは一座を率いて旅公演も行っていたようだから、すでに当時、アテナイ周辺では新しい様式の「演劇」が娯楽の中心となっていた。この新しいメディアは人々の心を震わせた。映画やラジオやテレビの登場と同じように。 なぜ人類は「近親相姦」をかたく禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」

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