「命を懸けた特攻隊員の評価まで180度変わってしまい……」 養老孟司さんが解剖学を仕事に選んだ理由

 NHK朝ドラ「あんぱん」で学校教師を目指している主人公・朝田のぶが学ぶ女子師範学校は「忠君愛国」を徹底して生徒たちに叩きこんでいる。のぶ自身は、そこに若干、微妙な反応を示していることもあるのだが、友人はいつの間にか完全に、そちら側の思考に染まっているようだ。しかし数年後には、その教育が敗戦によって根底から否定されることになるのを視聴者はよく知っている。 養老孟司さんが「解剖学」を仕事に選んだ理由 ⇒  その時、教えを信じ込んできた先生や友人たちはどうなるのか、のぶたちは正気でいられるのか——この先の展開を考えてハラハラしている方も多いことだろう。  現実の世界でも、昭和20年8月15日の経験が人生を左右したという人は少なくない。『バカの壁』で知られる養老孟司さんもその一人だ。東京大学医学部に進みながら、生きている人を診察するのではなく、解剖学の道に進んだことは、敗戦時の経験が大きく影響しているのだ、と新著『人生の壁』で明かしている。一体何があったのか。もう一つの理由と共に、養老さんの職業観が伝わってくる文章をご紹介しよう(以下、『人生の壁』より抜粋・引用しました)  *** 世の中で確かなものとは何だろう  大学で解剖学をなぜ選んだか。世間で医者といえば、内科や外科、小児科等々をイメージする方が多いのは今も昔も同じです。解剖学は決してメジャーな存在ではありませんでした。 東京大学医学部に進みながら、生きている人を診察するのではなく、解剖学の道に進んだことは、敗戦時の経験が大きく影響しているという養老孟司さん  それでも解剖学の道に進んだ理由の一つは、「確実さ」があったからです。よくお話ししているように、小学校低学年の時に、敗戦によって世の中がひっくり返ってしまうのを目の当たりにしました。 命を懸けて特攻した人たちの意味や評価すら180度変わってしまうような時代に生きていると、学問をする以上はどうしても確実なものを求めたくなったのです。解剖学が一番確かなものではないかという結論に至ったわけです  昨日まで絶対に正しいとされていた教科書に、正しいことを教えていたはずの先生が墨を塗れと言う。大人の言っていることは全部嘘だった。言葉は信用できない。そんな経験をすると、「一体、世の中で確かなものとは何だろう」という問題を考えざるをえなくなります。  一方で自然は嘘をつきません。よくわからないことばかりだけれど、それは自然に問題があるわけではない。  そもそも理系を選んだのも、文系よりは確かな分野だろうという気持ちがありました。 生きていくうえで壁にぶつからない人はいない。それをどう乗り越えるか。どう上手にかわすか。「子どもは大人の予備軍ではない」「嫌なことをやってわかることがある」「人の気持ちは論理だけでは変わらない」「居心地の良い場所を見つけることが大切」「生きる意味を過剰に考えすぎてはいけない」——自身の幼年期から今日までを振り返りつつ、誰にとっても厄介な「人生の壁」を越える知恵を正面から語る 『人生の壁』  医学部でも「確実さ」を求めていき、解剖学が一番確かなものではないかという結論に至ったわけです。  これは別に私だけの考えではありません。昭和20年卒業の細川宏先生という東大医学部の解剖学の先生は、「医学の中で一番確実な学問とは何かと考えたら、解剖学だという結論が出た。だから自分はこの道を選んだ」と仰っていました。  ここで言う「確実さ」とは、収入の安定とか、社会的な評価だとか、そういう類のこととは一切関係がありません。  むしろ、医学部を出て解剖学をやったところで、潰しはきかないのです。病院で勤務医として働くこともできないのですから。その意味で経済的な確実さは怪しい。  一応、どの医学部にも解剖学の講座があることはありましたが、基礎研究なので、ポストが十分にあるとも限りませんでした。  あくまでも学問として見た場合、いきなりひっくり返るようなことにはならない性質の分野だということです。  昨日までの一億玉砕本土決戦が、玉音放送の後は平和と民主主義にひっくり返った。そういうことが学問の世界でもあるのではないか。そんなことが真剣に気になる時代だったのです。  解剖で相手にするのは生き物の死体です。これは変わらない。生きている人間を相手にする分野ではそうはいきません。外科であろうが内科であろうが、患者さんはそれぞれ個性があり、しかも日々変化していきます。うっかりすると治ってしまう。なぜかわからないのに治ることが珍しくありません。  命を懸けて特攻した人たちの意味や評価すら180度変わってしまうような時代に生きていると、学問をする以上はどうしても確実なものを求めたくなったのです。  もちろん当時、そんな不安定さを気にしない人も多くいました。何も考えずに順応できるタイプの人は常にいます。  しかし、基礎学問をやる人はそもそもそういう思考の持ち主ではありません。ひっくり返ることに対して強い不安を感じる。世の中がひっくり返ったとして、自分はそれに合わせることができるのだろうか、と思うのです。  私にとってもともと一番落ち着くのは手作業をしている時でした。これはいまでもそうで、だから虫の標本を作っている時が落ち着きます。そういう性質もわかっていたから解剖学を選んだのです。  反対に、生きているものを扱うのは嫌でした。実習に使うネズミですら、情が移って殺せなかった。臨床をやれば人の生死を仕事にしなければならなくなります。そこは割り切らなければいけない。しかし割り切っていいものだろうか、などと私はつい思ってしまうのです。もちろんそんな人間ばかりでは世の中は回りません。あくまでも私はそういうタイプなので、解剖を選んだということです。 お金とは一定の距離を置きたかった  もう一つ、理由がありました。学生時代に見た先輩の医者たちの表情です。東大病院で見かけた医者たちは、みんな機嫌が悪そうだったのです。  あんなに幸せそうじゃない人たちばかりのところに行きたくない。そう考えたのです。  価値基準が金銭だとすれば、医者を目指したほうが絶対「得」だという判断になったのかもしれません。でも、そんなものはあてになりません。  当時は今ほどお金が価値の中心になかったようにも思います。先輩の解剖学教授と一緒にタクシーに乗った際、収入の話になったことがありました。運転手さんが月収30万円ほどと言うのを聞いて、先輩がボソッと一言、「俺より多い」。東大教授のほうがタクシーの運転手よりも安月給でもおかしくない。そんな時代です。  今にして思えば、このほうが健全な社会だったのではないでしょうか。社会的な地位とか名声と関係なく、身を粉にして働いた人がきちんと報酬を得ていたのです。  話は少しそれますが、これがある意味での日本の伝統だったはずです。たとえば鎌倉幕府にはほとんどお金がありませんでした。だから鎌倉市が世界遺産登録をしたいと考えても、大した目玉がないのです。地面を掘っても下駄と骨くらいしか出てこない。  天皇家であっても、あまりお金を持っていませんでした。そのくらい権力とお金とが分離している健全な社会だったのです。今でも天皇家は私有財産を大して持っていません。このあたりはイギリスあたりの貴族と大きく違いました。  それがかなり変わって、権力とお金が接近して、お金を持つ人がすべてを手にできる社会になってしまった。これをいい傾向だとは思いません。 養老孟司(ようろうたけし) 1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。89年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。2003年の『バカの壁』は460万部を超えるベストセラーとなった。ほか著書に『唯脳論』『ヒトの壁』など多数。 デイリー新潮編集部

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