王谷晶氏の「父の回数」 中年女性の生き方から見えてくる活力

2025年4月に発売された王谷晶さんの最新作『父の回数』。 英国推理作家協会(CWA)主催の翻訳ミステリー賞「インターナショナル・ダガー賞」にもノミネートされた話題作『ババヤガの夜』の著者が放つ短編は、孤独な現代人の魂を揺さぶる傑作揃い! 今回は『父の回数』の魅力を、書評家のあわいゆきさんに紹介していただきました。 王谷 晶(おうたに・あきら) 1981年東京都生まれ。著書には『ババヤガの夜』(ロサンゼルス・タイムスで「この夏読むべきミステリー5冊[2024年]」に選出)『君の六月は凍る』『完璧じゃない、あたしたち』『40歳だけど大人になりたい』『他人屋のゆうれい』などがある。 「余生」を送る私たちのいま 私たちはいつまで生き続けないといけないのだろう? 明るい未来が訪れる予感はなく、むしろうまれもった経済的な格差が広がっているいま、生きる意味を積極的に見出していくのは難しい。そして先が見えないにもかかわらず長すぎる人生は、生きるために必要な活力をも奪う。いま私たちが直面しているのは、生まれながらにして余生とでもいうような、惰性が支配する社会なのかもしれない。 だとすれば、私たちはどう「余生」ではない「人生」を取り戻せばいいのか--『父の回数』は人生を取り戻せる瞬間を、あるいは惰性で生きることを拒否する「選択」に差し迫られる瞬間を描いた短編が五作品、収録されている。 そして、作品にはとある共通項があり、それこそが最大の魅力なのだが……それを紹介するのはいささか無粋でないかとも悩んでもいる。 なぜなら本書は、「自らエンパワメントしようとしないエンパワメント小説」だからだ。 「中年」の生きかたから見えてくる活力 たとえば巻頭に収録されている「おねえちゃんの儀」は、ビアンバーで知り合って同棲十一年目を迎え、中年にさしかかった本郷律と森村十志子の日常を描く。森村を「おねえちゃん」と呼ぶ本郷はいまの生活に少なからず満足しており、同棲しているマンションのなかにある個人商店を「中散歩」と称してぶらぶら冷かして歩く。ある日、二人が訪れたのは同性婚訴訟のカンパを募集している『BOOKS 小石』だった。 語り手の本郷は「怠惰なノンポリ」を自覚しており、森村も政治のことを話したがらない。穏やかに生きることができている二人にとって、同性婚訴訟のカンパや権利獲得のための運動は、当事者であってもわざわざしなくてもいいものとして位置付けられている--いわば現状を維持していれば十分だと納得しているのだ。余生のような生き方とは、すなわち緩やかな現状維持だ。そのため必然的に社会構造に対しても、現状維持を選ばざるを得ない危うさがある。 だからこそ、物語は本郷がいかにして「怠惰な人生」を抜け出すかに焦点があてられる。そして本作の肝は本郷が運動に積極的な参加を志すようになったり、『BOOKS 小石』店主の小石川がカンパや運動への参加を強制するわけでもないところにある。描かれるのはあくまでも本郷がこれまで貫いてきた「現状維持」に対する不安と疑念を自ら抱く瞬間だ。そして湧き上がった不安と疑念こそが、人生を取り戻すための手がかりとなるのだと示す--中年を迎えても「生」を取り戻せるのだと、活力をもらわずにはいられない。著者の別作品『他人屋のゆうれい』とも世界観を共有する一作だ。 他人を知り尽くす難しさ あるいは「あのコを知ってる?」では、食堂兼居酒屋の「ベストマッチ」で契約社員として働く井杉が語り手だ。井杉は職場で出会った年上の紗代子とセフレのような関係を二年結んでいたものの、紗代子はあるとき「ちょっとしばらく来れないかも」と言って行方をくらませてしまう。そして井杉の家に紗代子の息子である拓己が訪れて、井杉は拓己とともに紗代子を探すことになる。 そもそも紗代子に息子がいることすら知らなかった井杉は、知らなかったにもかかわらず、紗代子とだらだら過ごす日々がこのまま続くのだと無意識に、なんとなく思っていた。そんな井杉は拓己から知らなかった紗代子の境遇を聞かされることになる。しかし、拓己は「母に会える気がする」と口にして思い出のある上野動物園に井杉と向かうものの、紗代子は見つからない。井杉の知らない紗代子をたくさん知っている拓己にも、まだまだ知らない紗代子がいるのだ。どこまでいっても他人を知り尽くすことはできない--その事実は新しく「知る」機会がこの先も無限に訪れることを、惰性で生きることを拒否する新鮮さが何度だって得られることを意味する。そして「知る」ことの新鮮さに気づいた井杉は、紗代子と再会したときに自らの人生を歩むべく自ら「選択」していくようになる。 「余生」的な生き方は、現状維持を望むのみならず、ある種の満足感によって新鮮さに気づきにくくする。だからこそ人生を取り戻すには、不安や疑念、あるいは新しく知る喜びのような、生活を営むなかで湧き上がってくる「感情」に自ら気づくことが欠かせないのだ。 「感情」を奪われないためには? 一方で、人生を取り戻すきっかけになるはずだった「感情」が奪われてしまう可能性があることを示唆するのは、表題作「父の回数」だ。高校二年生の仙波英雄は自分が父親の実の子ではないと知ってから、ふだん通り続いていく生活にしんどさと気持ち悪さをおぼえていた。そんな英雄は子連れ家庭の悲惨なエピソードを読み漁ることで心を落ち着かせる。結果的に反抗期もなくなにも変わらない日々が続いていたものの、叔母から実の父親の連絡先を伝えられて、英雄に変化が訪れる。 英雄が「おねえちゃんの儀」「あのコを知ってる?」の語り手と異なるのは、いまの生活に満足をおぼえているわけではなく、変わらない生活を維持するために無理やり満足させてしまっているところにある。あるはずの「人生」を殺して、無理やり「余生」にしてしまっているのだ。そんな英雄は実の父親に連絡をとる選択をして、感情を表にして人生を取り戻そうとするものの、父親と話したあとでさらなる困難が待ち受けていた。詳細は作品を実際に読んで目の当たりにしてほしいのだが、それは自分で気づいた感情を「消費」と結び付けられて、勝手に意味づけされる--気づいたはずの感情が自分のものではなくなる体験だ。 それはたとえば「これを読めば号泣間違いなし!」と謳う宣伝のような「感情」を消費するよう誘導するコンテンツの、自ら読んで感じたはずの「感情」が--得られたはずの気づきが--他人から諭されて「気付かされたもの」のようにすり替えられてしまう危うさに似ている。こうした本を紹介する記事にも同じことがいえるだろう。他人が「これは○○だ」と示すメッセージは指標にもなりうるが、同時に自ら気付ける機会を奪ってもいるのだ。「父の回数」は英雄を通して、人生を取り戻せる瞬間を見失ってしまう絶望を示唆する。 気づかせるのではなく「気づける」ように だからこそ、こうして紹介していくのはある種の「無粋」でもあるとも思っている。なぜなら本書は人生を取り戻す方法をメッセージ的に配置して「気づかせる」のではなく、あくまでも読者が自ら「気づける」ように描いているのだから。「あのコを知ってる?」の井杉は作中で「おれにだっておれの気持ちはあるのだ」と語っていた。それと同じように、読者の気持ちを変えるよう強制することなく、人生を取り戻せるようにする--その寄り添い方が本作では徹底されている。 私は本書を読んで、冒頭にも記した「エンパワメントしようとしないエンパワメント小説」とでもいうような、ある種の新鮮さに気づいた。しかし、だからといって「エンパワメント小説」だと思って買ったり読んだりする必要はまったくない。それぞれ歩んできた人生が異なるからこそ、あなただけに突き刺さるものがあるはずなのだ。それを味わうためにこそ、ぜひ『父の回数』を読んでほしい。 王谷晶『父の回数』 話題のシスター・バイオレンスアクション『ババヤガの夜』の著者が放つ傑作小説集。 誰にも同情されず、注目もされず、生きる営みを淡々鬱々と続ける人々の心を照らすものとは? 孤独な現代人の心を揺さぶる「ポスト・ダイバーシティ」ファミリー小説五編。 「中年」を迎え、社会にはびこる「違和感」に立ち向かうには……激しい「怒り」ではなく、ねちねちとした「憤り」

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