スポーツライターの広尾晃氏による時空を超えたプロ野球ベストナインをご紹介する記事の3回目のテーマは「出身大学別ベストナイン」だ。実際にプロ野球選手を輩出した数でいけば、明治、法政、早稲田、慶應義塾、駒澤、亜細亜の順になる。 広岡氏は新著『野球の記録で話したい』で、東京六大学出身者によるベストナイン選出を試みている。今回はその中から明治大学ベストナインに関する項を中心に見てみよう(以下、『野球の記録で話したい』をもとに抜粋・再構成しました)。【全3回の3回目】 *** 【写真を見る】日本一プロ野球選手を輩出している大学は? 「大学ベスト20」の一覧を見る 出身大学別ベストナイン ざっくりと日本野球の歴史を紐解けば、1872(明治5)年前後に、アメリカのお雇い外国人、ホーレス・ウィルソンによってのちの東京帝国大学である開成学校の生徒にもたらされた野球は、当初、開成学校改め第一高等学校=一高で広がった。以後、各地の学校に野球は広がっていったが、日本野球のオリジンである一高の天下が長く続いた。これを「一高時代」という。 日本野球の歴史を紐解けば、1872(明治5)年前後に、アメリカのお雇い外国人、ホーレス・ウィルソンによってのちの東京帝国大学である開成学校の生徒にもたらされた この一高を1893年に初めて打ち負かしたのが慶應義塾だ。そして1903年、この慶應義塾に挑戦したのが東京専門学校、のちの早稲田大学だ。早稲田大と慶應義塾大の「早慶戦」が大人気となり、これを核として東京六大学野球が始まった。 そして東京六大学に倣って各地の大学が野球のリーグ戦を開始。大学野球は日本のトップリーグとしてプロ野球ができるまで、人気を集めてきた。プロ野球への人材輩出では、明治大学を筆頭に東京六大学が上位四つを占めている(明治、法政、早稲田、慶應義塾)。 一世風靡した「明治大学ベストナイン」 東都大学野球は1931年に始まる。東京六大学が六つの大学で固定されたクローズドリーグなのに対し、東都は4部まであるオープンリーグで入れ替え戦を経てメンバー校が入れ替わる。 首都大学野球は、東海大学が中心となって1964年に始まった。こちらも2部まであるオープンリーグだ。 関西では、1931年に東京六大学に倣って旧関西六大学野球連盟が創設されたが、1982年に分裂騒動があり、老舗の関関同立(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学)に近畿大学、京都大学を加えたクローズドリーグの関西学生野球連盟が誕生した。 通算成績 これらが大学野球の有力リーグだが、近年は仙台六大学の東北福祉大や北東北大学野球の富士大など新興の大学も台頭している。大学からプロへの人材輩出は、こうした大学野球の勢力図を反映している。 明治大学出身者の充実ぶりを見よ 東京六大学で最多の154人ものプロ選手を輩出している明治大学は、実に豪華な顔ぶれだ。 打線は1番に巨人V9の外野手、高田繁。浪商から明大。2番は中日の名外野手原田。3番は東京六大学時代、立教の長嶋茂雄のライバルで、プロでも打率2位を4回も記録した近藤和彦。左打者で天秤棒を担ぐような独特の打法で知られた。のちプロ野球ニュース解説者。京都育ちで上品な関西弁だった。4番は「青バット」で戦後プロ野球の開幕を彩り、のちに西鉄ライオンズの中軸となった大下弘。明治大学時代はポンポンと本塁打を連発したので「ポンちゃん」と言われた。さらにヤクルト、巨人、阪神で活躍した広沢、今は少年野球ポニーベースボール協会の理事長だ。岩本は戦前は南海、戦後は松竹の主軸として活躍した強打者。平井三郎は広岡達朗の前の巨人の正遊撃手。一枝は中日でシャープな守備で鳴らした名二塁手。そして土井淳は、大投手秋山登と組んで明治大学、大洋で一世を風靡した名捕手。控え戦力も打点王の島内をはじめ分厚い。 なぜ金田正一は空前絶後の通算400勝を達成できたのか。王貞治の本塁打ではない「異次元の記録」とは。日米の実力格差を「数値化」するとどれくらいになるのか──。通算記録、シーズン記録だけでなく、守備記録から2軍の記録、果ては「出身学校別」「名前別」ベストナインまで、ありとあらゆるデータを駆使して野球を遊び尽くす。大人気ブログ「野球の記録で話したい」運営者によるマニア垂涎の一冊 『野球の記録で話したい』 投手陣の筆頭は杉下茂。わかっていても打てないフォークを駆使した。筆者は90歳の杉下に話を聞いたことがあるが「フォークはそれほど投げませんでしたけど、相手打者が勝手に意識してくれました」と語っていた。藤本英雄は1950年に史上初の完全試合を記録した巨人のエース。そして秋山登はサイドスローの名投手だった。1960年大洋の初優勝時に21勝。通算193勝に終わったが強豪チームに在籍していたら優に200勝していただろう。このあとに「闘将」星野仙一が来る。中日では先発だけでなく、初代のセーブ王になっている。監督としても中日、阪神、楽天で采配を振るった。 川上憲伸は平成の中日のエース。MLBでも投げた。清水秀雄は戦前の南海に争奪戦の果てに入団。打者としても活躍。林義一は大映の技巧派エース。カーブの使い手。江夏豊の恩師でもあった。そして2024年引退の広島のエース野村。 救援では巨人、西武で131セーブを挙げた鹿取に、4球団で投げた技巧派の武田。今はMLB解説者として癖のある解説をしている。高野は秋山の前の大洋のエースだが、救援でも投げている。野村武史は弱小高橋ユニオンズにあって先発、救援で活躍。明治大学は先発投手の層が非常に厚いので、現役で活躍する先発投手の日本ハム山崎福、広島森下、中日柳の名前を末尾に挙げておく。 監督は選手経験のない応援団出身の名将、島岡吉郎がすぐに浮かぶが、筆者は杉下茂の生涯の恩師で、1954年の中日優勝時の監督の天知俊一を推したい。 *** それぞれの通算成績などは別表でご確認いただきたい。なお「六大学」としたため、同書で広尾氏はかなり苦労しながら「東京大学出身者ベストナイン」も選出している。他の五大学と比べると無名の選手が並ぶのは仕方のないところであろう。 広尾 晃(ひろお・こう) 1959年大阪府生まれ。スポーツライター。立命館大学卒業後、広告制作会社、旅行雑誌編集長などを経てライターに。ブログ「野球の記録で話したい」を運営。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』『データ・ボール アナリストは野球をどう変えたのか』などがある。