ケアはなぜ「刹那的」なのか?──今がよければすべてよい、から見えてくる世界

「ケア」とは一体どういう概念で、どういう営みなのか。医学書院〈ケアをひらく〉シリーズで数々の話題書を手がけてきた名編集者が、ケアに「編集」という軸を加えることで、ケアの本質に迫り、新しい世界の見方を探っていきます。 ※本記事は白石正明『ケアと編集』から抜粋・編集したものです。 「ケアと編集」というのがこの本の題名だ。まったく違う世界の二つの言葉がたまたま同じ席に座っているだけのようにも見えるかもしれない。「編集」は基本的に文字を扱う仕事だけど、「ケア」は高齢者や障害者など脆弱な人たちのお世話をするイメージだから、一体どこが似ているのかと。 一方で「なるほどケアと編集は似ているなぁ」と思う人もいるだろう。編集者は、「書けない書けない」と原稿用紙を丸める著者のそばでご機嫌を取ったり日常生活のお世話をしたり、ときに叱咤激励をするというイメージがあるから。「サザエさん」のノリスケおじさんのようなこの姿は、ケアのイメージに近いかもしれない。 このような題名の本を書こうというのだから、もちろんわたしはケアと編集は似ていると思っている。たしかに編集者は著者が気持ちよく書けるようにいろいろな配慮をする。その姿は「ケア」に近いのだろうが、わたしはそれとはまた違った意味で、ケアと編集は似ていると思うのだ。 では、どこがどう似ているのか。それが一言でいえないから、こうして本を書いている。もしかしてこの本を読み終わっても明確に伝えられないかもしれないけれど、「この著者がそう言いたくなるのはわかるな」ぐらいに思ってくれたらうれしい。 刹那的なケア わたしは医学書院という出版社で、25年間、〈ケアをひらく〉というシリーズの編集に携わっていた。2000年に広井良典さん(現京大名誉教授)に書いていただいた、その名も『ケア学』という本を出してから、2024年に定年退職でやめるまで43冊を刊行した(シリーズは現在も続いていて2025年3月時点でちょうど50冊出ている)。 さいわい好評を得て、『逝かない身体』(川口有美子著、2009年)が大宅壮一ノンフィクション賞、同時に出した『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著、2009年)が新潮ドキュメント賞、『中動態の世界』(國分功一郎著、2017年)が小林秀雄賞、『居るのはつらいよ』(東畑開人著、2019年)が大佛次郎論壇賞を受賞した。また2019年には、このシリーズ全体が毎日出版文化賞をいただいた。 あらためて言うまでもないが、それぞれの著者の力量には感服するしかない。だが、何らかの賞を受けたから感服しているのではない。そもそも「ケア」というのは、一見した印象と違って、やるのもむずかしいし、それについて書くのはなおむずかしいことなのだ。それをやりきって、多くの読者を感動させ、納得させた時点ですばらしい成果なのだとわたしは思っている。 何がむずかしいのか。一つは今の世の中の基本的な価値観と逆のことをやっているからだ。自分の身は自分で守るという「自立/自律志向」とか、最小のインプットで最大のアウトカムを得ようとする「効率志向」にまずは反している。それだけではない。この“志向”という言葉が前提にしていること、つまり「未来の目標のために現在を手段にする」という姿勢そのものから、ケアはかけ離れているからだ。 むしろケアは「現在志向」だと思う。今を少しでも楽にする。痛いことはしない。この場にある不快をとにかく除去する。そこに居られる「現在」をつくる。 将来のために現在を犠牲にしたりしないのだから、言葉のイメージは別にして、ケアに対して「刹那的」という表現を当てるのは正確だと思う。もちろん現在の状態を楽にすることで、結果的によいことがやってくるかもしれないが、それはあくまで副産物である。やってくるかもしれないし、やってこないかもしれない。それはどうでもいい。 こう書くと「ケア」というよき言葉が汚されたような気分になった人もいるかもしれないけれど、ここはかなり大きなポイントだとわたしは思っている。 リハビリの昼と夜 ちょっと抽象的すぎたかもしれないので少し具体的に書いてみる。ただわたしの場合、具体的な素材で語ろうとすると、おもに自分で編集した本の中から持ってくるしかないので、そこはお許しいただきたい。 『リハビリの夜』という本がある。先ほど記したように新潮ドキュメント賞を受賞した名著だ。著者は熊谷晋一郎さんという小児科医で、生まれながらの脳性まひを持っていて四肢がそれほど動かない。今は東大の先端科学技術研究センターで当事者研究というものを研究している。熊谷さんはふだんは電動車いすに乗って都内を移動している。電動車いすは目立つので、都内の人ならもしかして地下鉄のホームなどで熊谷さんの姿を見たことがあるかもしれない。 『リハビリの夜』には、そんな彼が少年時代に体験したリハビリテーションの記憶が書かれている。合宿でトレーナーに組み伏せられて、動かない足を動かされ、動かない手を動かされ、腰を動かそうとしたら「そこは腰じゃないと!」と手のひらで叩かれる。もちろん厳しいばかりではなく、自分の体をトレーナーと一緒になって動かすような共同作業的な部分もある。 そんな「昼」のリハビリから解放されると、退嬰的でそれでいてうっすらとした官能の宿る「夜」がやってくる。私をモノのように扱っていたトレーナーの手の感触。それでいてお互いに感覚を探り合うような共同作業の記憶。熊谷少年は、同室の小柄な少年もまた布団の中でぼーっとしていることに気づく。タオルケットがもぞもぞしている。熊谷少年にはわかる。昼、四つん這いになって移動する彼を、何度も笑いながら引き戻して遊んでいた年下の健常な女の子とのひとときをうっとりと思い出して自慰をしているのだ。 コントロール不能な体を無理やりこの世界に押しとどめようとする昼と、コントロールの外へと快楽とともに放逐される夜。そんな昼と夜を同時に受け入れながら、体は生きている。 熊谷さんが大学に入って一人暮らしをはじめるあたりも、この本の読みどころだ。リハビリで押しつけられた画一的な動きではなく、たとえば便器のフォルムに従って、便器そのものと会話をしながら、その便器が要求する動きをみずからに取り入れてみる。そこから生み出されたオリジナルな動き。そんな悪戦苦闘とも自分の体を使った探検ともいえるような、みずみずしい体験が綴られる。 失禁と世界の回復 熊谷さんはときどき失禁をすることがあった。介助者なしにいつでも自由にトイレに入れるわけではないので、街なかで失禁してしまったこともある。そのときの記述。 失禁した私から見える世界は、その多くが、私とは関わりを持たずに動く映画のようだ。街行く通行人、楽しげな街角、忙しい喧騒は、私からは遠く、スクリーンを隔てた一枚向こう側に見える。(『リハビリの夜』216頁) 街なかで便を漏らす。失禁の“失”は「しそこなう」という意味で、“禁”はここでは「閉じ込める」というようなことらしい。つまり、ふさいでいたものがうっかり出てしまった。多くの人が暮らす通常世界から放り出されたように感じるだろう。世界はスクリーン一枚隔てた向こうに行ってしまった。 そのかわり、これまではあまりに当たり前すぎて協応構造でつながっていることすら無自覚だった地面や空気や太陽は、くっきりとまぶしくその姿をあらわし、私の体はそちらへと開かれていく。彼らは失禁しようがしまいが相変わらず、私を下から支え、息をすることを許し、上から照らす。(同頁) この部分の原稿をもらったとき、激しく情動を揺さぶられたことを思い出す。社会という人工物の囲いが失われたとき、それまでずっと自分を支えていたある種の自然の存在に熊谷さんは気づかされる。それが地面と空気と太陽だなんて……。生存の条件として数え上げるにはあまりに自明にみえることに感謝せざるを得ないような過酷さと同時に、そうした過酷さを通してしか体験できない恍惚もまたあるのだと思わされた。 しかし激しく情動を揺さぶられたのは、それが熊谷さんに特別なことだったからではない。生きているということはそんな過酷さと恍惚のあいだを彷徨うことにほかならないと、わたしも薄々気づいているからだろう。 太陽と空気と地面とケア さて、いつまでも恍惚としてはいられないので、熊谷さんは失禁介助をしてくれる人を探す。まずは視線を飛ばす。 「あの、すみません」と言って相手の目をじっと見たときに、その人の姿勢がどのように変わるかをみれば、おおよそこの人は手伝ってくれるか否かを推測できる。手が前方に出て腰をかがめ、「どうしました?」という風情で一歩私のほうに身を乗り出してくる感じの人はうまくいくことが多い。(同書212頁) こうして便の処理をし、シャワーで洗ってもらっていると、だんだんとその手が誰のものだかわからなくなってくる。介助者のほうも誰の身体を洗っているのかわからなくなってくるらしい。こうしてスクリーン一枚隔てたところに佇んでいた世界は、ふたたび熊谷さんのもとに戻ってくる。 このとき熊谷さんの視線にナンパされた失禁介助者は、太陽や空気や地面と同じ意味で、ケアを提供しているのだと思う。こういう人は、太陽や空気や地面とまったく同じ意味で、高貴な存在だと思う。 ケアは刹那的だと先ほど書いたが、『リハビリの夜』を参照しながらわたしが言いたかったのは次のことだ。 「今、ここ」で困っている人に手を差し出せる人は、太陽や空気や地面と同じように、この世界をどうにか存続させている基底的な条件である。こうした人たちが世界のバグを始終補修して、手入れをしている。ケアはこうして「今、ここ」を成立させている。 そうやって整えられた舞台の上で、自己啓発とかリスク管理とかコスパとか一攫千金とか革命の夢とかが、スポットライトを浴びながら歌ったり踊ったりしているわけだ。 他人や自分を「ケアする」ことは、じつはとてつもなく高度な営みだった

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