反ベトナム戦争運動で盛り上がる革命軍兵士たち--連合赤軍事件とあさま山荘事件という末路

グローバル化、格差拡大、揺らぐデモクラシー、近現代日本の戦争と平和——、現代日本の課題は、すでに戦前昭和にあった! 「六〇年安保」で挫折した学生の新左翼運動は、ベトナム戦争をきっかけとして再燃した。世界各地の生運動と共鳴するように「革命軍兵士」たちは自身を闘争へと駆り立てていく。 新左翼運動は次第に過激化していき、武装闘争へと転じていった。連合赤軍のあさま山荘事件、テルアビブ空港での乱射事件などを経て、民衆の支持を失っていった。 「戦後80年」であり「昭和100年」に当たる2025年に、『新書 昭和史』では、グローバリゼーション・格差・デモクラシーが織りなす日本の100年間の戦争と平和の歴史を追跡する。 (*本記事は井上寿一『新書 昭和史』から抜粋・再編集したものです) ベトナム戦争で息を吹き返す学生運動 「六〇年安保」で挫折した学生の新左翼運動は、ベトナム戦争を直接のきっかけとして、息を吹き返す。ベトナム戦争が始まった翌年の12月17日、三派(社学同・中核派・社青同解放派)系全学連が結成される。結成に際しての檄文は、「ベトナム反戦意識を出発点にしながらも、ベトナム戦争を構造的一因とする現代世界そのものへの否定的方向性」を貫くとなっている(池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史』)。 新左翼運動の革命軍兵士たち 反ベトナム戦争運動は、大学紛争とあいまって、あるいは世界的な1968年革命のスチューデント・パワーを高揚させる。フランスでは3月から大学を批判する学生運動が労働者や市民の支持を得て、大規模なデモへと発展して、「五月革命」と呼ばれるような状況になっていた。アメリカでも4月末から名門のコロンビア大学で学生運動が起こり、全米に広がっていった。学生主導の〈革命〉が世界で同時に起きるかのようだった。 他方で「ベ平連」系の運動は、新たなスタイルを生み出す。1969年2月28日、新宿駅西口地下広場に「ベ平連」系のフォークゲリラが現われる。フォークゲリラの歌に導かれて、人びとは足を止める。西口地下広場にいくつものティーチ・インが生まれる。そこにはさまざまな政治的立場の市民や新左翼系の学生たちも集まる。 広場でのある討論ではヘルメット姿の若い男(おそらく新左翼系の学生運動家)がアメリカのベトナム侵略を非難した。すると背広姿の男が「侵略したという証拠を言ってくださいよ」と反論する。彼は重ねて言う。「アメリカは北ベトナムの侵略を防ぐために出かけているわけですよ。そこんとこ、そうじゃないっていう証拠はありますかっていうの」。議論はかみ合わない。背広姿の男はここで重要な一言を残す。「まぁ外国のことは結構だけどね、とにかくあなたがた、日本のなかで戦争起こすことだけはやめてください」(大木晴子・鈴木一誌編著『1969 新宿西口地下広場』)。 彼の心配は杞憂とは言い切れなかった。この頃、慶應義塾大学の学生だった池上彰(のちにジャーナリスト)は、新左翼(革マル派)の活動家からオルグ(勧誘)を受ける。「革命のために君も仲間に加われ」。池上は拒絶する。「嫌です。だって革マルって、内ゲバで人を殺しているんでしょ?」結局のところ「革命の理想のために人を殺すことは許されるのだ」との話だった(『激動 日本左翼史』)。 池上に言わせれば、新左翼は「自分たちを軍隊になぞらえるのが好き」だった。慶應義塾大学の日吉キャンパスには、中核派の立て看板に「慶大師団」と記されていたという。1969年9月4日には「共産主義者同盟赤軍派」(赤軍派)が結成される。「軍」を自称するこの組織は、「大阪戦争」や「東京戦争」を計画する。彼らは「革命軍兵士」だった。 連合赤軍事件とあさま山荘事件という末路 ベトナム反戦運動としての新左翼運動がピークに達したのは、1968年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争だろう。アメリカの原子力空母エンタープライズが寄港すれば、長崎県の佐世保市はベトナム戦争の出撃基地になる。反対集会や抗議デモがおこなわれる。そのなかには高校生の村上龍(のちに作家)もいた。 新左翼の学生運動家は佐世保市民の支持を受けた。警察隊による催涙ガスにまみれて佐世保から列車に乗ったところ、彼らは車内で車掌から「ご苦労さまです」と労われた。博多駅から九州大学までの路面電車では、座っていた人たちから席を譲られた。あるいは佐世保に行ったある大学生に同じ大学の右翼の学生が「エンタープライズの入港は、本心を言えばわれわれも反対だ。三派全学連はよくやったと思っている」と礼を言った(島泰三『安田講堂 1968─1969』)。彼らが「太平洋戦争でアメリカに立ち向かって敗れた日本兵とだぶってみえた」佐世保の市民もいた。 それでも寄港を阻止することはできなかった。ベトナム戦争は続く。さらに1970年6月22日、政府は日米安保条約の自動延長の声明を発表する。新左翼のベトナム反戦運動は、結果を出すことなく挫折する。市民の支持も離れていく。 およそ政治集団は勢力が拡大していくと、政治的に寛大な振る舞いをする。しかし縮小に向かうと非難の矛先は同じ政治集団内に向かう。新左翼運動も同様の末路をたどる。内ゲバが激しくなる。そのもっとも凄惨な例が1971年から翌年にかけての連合赤軍の山岳ベース事件(リンチ大量殺害事件)だった。 連合赤軍の兵士たちは、警察隊と「戦争」を戦う。1972年2月、あさま山荘事件が起きる。訓練を受けていた兵士たちは、銃撃戦を戦う。警察隊に犠牲者が出る。テレビ中継に釘づけとなった国民は、一部始終を目撃した。さらに5月30日には日本赤軍がイスラエルのテルアビブ空港で乱射事件を起こす。ここに民心の離反は決定的となった。 内乱の鎮静化 以下に個人的な記憶を記す。子供の頃、東京の神楽坂に住んでいた。自宅のすぐそばは飯田橋駅だった。1968年1月15日、飯田橋事件が起きる。エンタープライズ寄港阻止闘争に向かう学生と機動隊が衝突した。当時、小学生だった著者もこの時の騒乱は記憶に残っている。神楽坂の近辺にはいくつかの大学があり、学生運動も盛んだった。神楽坂商店街のなかには機動隊に追われて店内に逃げてきた学生をかばう店もあった。 同級生の家に遊びに行くと、そこにはヘルメットがあった。彼の長兄のもののようだった。ヘルメットに独特の字体で「革」と記されているのは読めた。しかしそれ以上はよくわからなかった。小学生の子供心に大学生とは学生運動をするのが当たり前のように思えた。 他方で近隣の大学のバリゲートのなかから神楽坂の飲食店に出前の注文が入ることもあった。大量の注文でよろこんで出前したものの、代金を踏み倒された。神楽坂通りの歩道の煉瓦は学生の投石に使われるようになった。学生たちに対する商店街の人たちの気持ちはどのようになったのか。 1970年になると、8月4日に事件が起きる。新左翼の学生の遺体が家の近所の厚生年金病院に遺棄されていた。小学生の頃、この病院に入院したこともあり、中学二年ながら、衝撃を受けた。この年の11月25日には通学していた中学のすぐそばの陸上自衛隊東部方面総監部で三島由紀夫の事件が起きている。 これらの事件の結末は、高度経済成長下の内戦や内乱のおそれが鎮静に向かっていたことの現われだった。ひとつの時代が終わろうとしていた。

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