乗客106人が亡くなり、562人が重軽傷を負ったJR福知山線脱線事故は25日、発生から20年を迎える。 「祈りの杜」脱線事故現場を整備した慰霊空間 当時大学生だった次女が事故車両の2両目で大けがをした、兵庫県川西市の三井ハルコさんがラジオ関西の取材に応じた。 「当事者ではない、いったいどういう立ち位置で接すれば良いのか、さまざまな葛藤が」三井ハルコさん〈2025年4月17日 兵庫県川西市〉 三井さんをはじめ、事故の負傷者と家族らの有志は事故の2年後、2007年7月から「補償交渉を考える勉強会」を開催。 その後、補償(賠償)交渉などが個別では対処しきれなくなったため2008年2月に「JR福知山線事故・負傷者と家族等の会」を設立した。 国土交通省・被害者対策室との意見交換も10年以上続く〈2024年11月〉 心身の不調を抱えながらJR西日本との補償交渉を続ける人、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩む人もいる。 三井さんの次女もラッシュアワーの電車 に乗れない時期があった。「娘は命を取り留めたから、LINEで連絡を取ることも、会うこともできる。しかし20年前のあの日、家族や知人を失った方々の気持ちはいかばかりのものか、それを思うと涙が出てくる」とうつむいた。 「被害者の家族は“当事者じゃない”という後ろめたさや負い目があった」という。 事故から1年を前に、自らのグループへの協力を依頼するために、加害企業であるJR西日本へ向かう。 「あの日を忘れない」2度と悲惨な事故を起こさないために、ささやかな栞を ※資料提供・空色の会 最初は聞き入れてもらえないと思っていたが、被害者の家族を含む市民の動きを認めてもらい、活動への自信が芽生えた。JR西日本各駅の「おわび」のポスターの隣に追悼行事の取り組みを記したポスターを掲示した。 事故から1年 再発防止を願い、事故の風化を緩める動きがすでにあった ※画像データ提供・空色の会 三井さんはその後、1995年に起きた地下鉄サリン事件をきっかけに立ち上がった、犯罪や事故の被害者・被災者らを支援するNPO法人「リカバリー・サポート・センター」とも連携を深めた。 また、日航機事故の遺族でつくる「8.12連絡会」事務局長・美谷島邦子さんとの出会いも大きな転機となる。 1985年8月12日、JAL123便が御巣鷹の尾根に墜落、520名の尊い命が奪われた日航ジャンボ機墜落事故。それから20年後にJR福知山線脱線事故は起きた。 講演する美谷島邦子さん〈2024年7月 兵庫県明石市〉 美谷島さんは昨年7月、ラジオ関西の取材に対し、「被害者や遺族の心をひとつにまとめるのではない。(慰霊のため、日航機事故現場の)御巣鷹山へ登ることも強制しない。ただ、さまざまな事故や災害を経験された方々が自発的に事故現場を訪れ、命の重みや大切さを改めて感じて、心を鎮めることができたら」と答えた。 三井さんも同感する。運動体をつくるのではない。先頭での旗振り役でもない。居場所を設けて、後ろから見守る立場でありたいと願う。 「当事者ではない、いったいどういう立ち位置で接すれば良いのか、さまざまな葛藤が」三井ハルコさん〈2025年4月17日 兵庫県川西市〉 伝え方はさまざまでいい。20年を期に自らの体験を綴った本を出版する人、絵画を通して栞で表現する人、負傷者が集い、語る場もそう。 最近、三井さんは、ある地域活動家がつくった「共事者」という言葉を知った。当事者意識を強いるのでもなく、「当事者以外、語ってはいけない」という雰囲気もつくらない。 「事を共にし、寄り添って生きることができたら…」。20年経ってたどり着いたひとつの考え方だ。 三井さんは母として、ひとりの人間として、いま強く感じている。「苦しみを我慢することに慣れてしまった被害者や家族がたくさんいる。これからは、そうした方々がしまい込んだ“心の傷”と向き合い、悲しい出来事から被害者自らが立ち上がることを息長く待ちたい」。