高齢者が高齢者の親を介護する、いわゆる「老老介護」が今後ますます増えていくことが予想されます。子育てと違い、いつ終わるかわからず、看る側の気力・体力も衰えていくなかでの介護は、共倒れの可能性も。自らも前期高齢者である作家・森久美子さんが、現在直面している、96歳の父親の変化と介護の戸惑いについて、赤裸々につづるエッセイです。 【写真】96歳、会社のOB会で年長者として挨拶する父 * * * * * * * 前回〈介護疲れで体調を崩す娘に、健康自慢をする96歳の認知症の父。今の楽しみは施設からスーパーに行って焼き芋を買うこと〉はこちら 認知症の症状がどんどん進むとは限らないようだ 96歳の父は元気に2025年のお正月を迎えた。3年前の1月に婦人公論.jpで「オーマイ・ダッド!父がだんだん壊れていく」の連載が始まった時より、心身の状態が落ち着いているのを不思議に感じる。 思い起こせば、連載が決まった直後、父は車が使用不能になるほどの大きな自損事故を自宅前の道路で起こした。その事態を受け入れられない父は、茫然自失の状態になり体調を崩してしまった。父の車庫が壊れただけで、誰も巻き込まなかった事故だったことだけは救いだった。 事故の後に要介護認定を受けて、父が認知症であるとわかった日から、私は接し方を学びつつケアしてきた。ケガは打撲だけですんだため、事故を起こしたことを忘れて免許を更新しようとする父と、なんとか阻止しようとする私。口を開けば親子のバトルが始まり、エネルギーを使ってへとへとだったことを思い出す。 3年間父に寄り添っているうちに、父の生来の性格がわかってきたし、認知症によって思考が変化していることにも気づいた。2023年の秋に老人ホームに入居してから、不思議なことに、認知症検査の長谷川式認知症スケールの点数が上がり、現在も継続できている。その点数に関しては、現在の父は「認知症でない」に分類される。 脳神経内科の画像診断による脳の失われた機能は変わらないので、長谷川式認知症スケールの点数だけで決めることはできないことは承知している。しかし、年を取るごとに認知症が進むと思っていた私には、明るい材料になったのは確かだ。 ひとつだけ困っているのは、父とのバトルがなくなったので、エッセイのネタが見つからず、連載の間隔が空いてしまっていることだ。 父の焼き芋ブームはまだ続いていた 今年2月、厳寒の時期を迎えた札幌にいるのに、父は気温が氷点下の日でも時々焼き芋を買いに、老人ホームの近くのスーパーに行っている。嗜好品については移り気なところのある父だが、焼き芋ブームはまだ続いていた。 父の居室のドアを開けるとおいしそうな匂いがするし、ごみ箱に焼き芋の皮が入っているから、私はすぐにわかる。 「パパ、焼き芋食べたんだね。買い物に行く時、雪が降っていなかった?」 父は、午前中出かけた時のことを思い出したらしい。 イメージ(写真提供:Photo AC) 「あ! そうだった。帽子を被るのを忘れて出かけたから、雪が当たって冷たかった。髪がないと頭皮に直接かかるからな」 「それは冷たかったね。雪が降ってなくても、この時期寒いから冬の間は必ず帽子を被って出かけたほうがいいよ」 「わかった。そうする」 私は父のクローゼットを開けて、コートのフードの中に父愛用のハンチングを入れた。こうしておけば、次に買い物に行く時、父は帽子を被るのを忘れないだろう。 まるで「かまってちゃん」 午後5時が近づくと、ホームの人が夕食の誘いにくる。私はそれを合図に帰宅することにしているが、父はベッドに腰掛けてテレビの大相撲中継やニュースを見ていて、なかなか動こうとしない。 「呼ばれたから、食堂に行こうよ。私も一緒に1階に下りるから」 日によって違うのだが、父は直前のことを忘れてしまうことがあって、私に聞く。 「呼びに来たか?」 「うん、さっき来てくれたよ」 「じゃあ、行くか」 と父は腰を上げた。 「呼ばれなくても、時間が来たら自主的にちゃんと食堂に行っている人もたくさんいるんだから、パパもそうしたら?」 「いやだ。呼ばれなければ行かない」 まるで「かまってちゃん」だ。父は常に誰かに気にかけてもらっていると確認したいのだろう。幼い子どものような承認欲求がかわいらしく見えた。 マスクをして廊下に出た父の横に並び、私は左手で父の右手に触れた。父が自然に私の手を軽く握り返す。エレベータ—のボタンを押すタイミングで、繋いだ手を離して私は言った。 「もしかしたら、パパと手を繋いで歩いたのは、初めてかもしれない」 自分で言っておいて、私は妙に照れくさかった。 外に連れ出すのはフレイル予防 2月の札幌は大雪に見舞われる日が多く、父が一人で焼き芋を買いに行くことができなくなってしまった。寒さと雪で閉じこもりがちになるのを防いであげたい。晴れ間を見て、私は父を車に乗せて病院や床屋に行ったり、時々父の好きなランチの店に出かけたりしている。 80歳位から父は、同年代の会社の同僚たちが、足が弱って会合に出て来られなくなったことを残念がっていた。その頃私は50代になったばかりで、高齢者の気持ちがわからなかった。些細なことで父に突っかかっていた当時のやり取りを思い出す。 「俺はずっと自分の足で好きなところに行きたいから、スポーツクラブでトレーニングしているんだ。定年退職してから20年続けていて、筋力がある。死ぬまで自分の足で歩けるはずだ」 私は父の健康自慢の話を聞く度に、逆らって一言言いたくなる。 「パパは生まれつき丈夫な体を神様に与えられた。でもね、病気で歩けなくなった人たちが、努力していなかったわけではないと思うよ」 父は努力を私に認められなくて心外だったらしく、機嫌の悪い声で言った。 「いや、継続は力なりって言葉があるだろう? トレーニングの効果があったかどうかを見届けられるのはおまえだけだ。いずれわかる日が来る」 それから16年経った今、歩く速度は遅くなったが未だに父は杖を使っていない。とはいっても、外出先で段差があると、つまずきそうになる頻度が上がった。そのような場所では、転倒を未然に防ぐために、私は父に肩を貸して支えながら歩いている。 2年前、熱が出たのがきっかけで、父はものが食べられなくなり、歩くのも困難になったことがあるが、4ヵ月近く入院してリハビリしたら歩行能力は蘇った。確かに長年の筋トレの効果もあったかもしれないと思う。たまには褒めてあげたほうがいいのだろうか。 焼き芋の次のブームはコーラ 雪解けが始まった3月下旬。老人ホームに入館する際に、受付で名前等を書く間、担当の人が父の様子を教えてくれる。受付の女性がニコニコして言った。 「玄関横の自動販売機で、コーラを買ってソファに座っておしゃべりをしていましたよ」 私は父がほかの入居者と、交流していることがうれしくて彼女に聞いた。 「お相手は男性ですか?」 「いいえ、女性ですよ」 コーラの缶を片手に女性と話をしている父。ホームの人間関係も拡がっている証のように感じた。 父がなぜコーラを飲んでいることまで受付の人が把握しているのかが謎だった。 「父は普段あまりコーラを飲まないのですが……」 「そうなんですか。自販機で買った後、飲み口のプルが開けられなくて、受付に頼みにいらっしゃるのでコーラだとわかるんですよ」 イメージ(写真提供:Photo AC) 「お世話になっています。ありがとうございます」 今日の父との会話はコーラのネタから始めようと考えながら居室に入った。 ベッドサイドのごみ箱に、コーラの缶が2つ入っている。 「あれ? 受付の人がロビーでコーラを飲んでいたと教えてくれたけど、部屋で飲んだの?」 「いや、持って歩いても中身がこぼれないくらい減ってから部屋に戻って、残りを飲んだ。たまに飲むと、コーラはうまいな」 父は糖尿病ではないし、血液検査の結果もすべて正常値という、96歳とは思えない頑健な体を持っている。現段階では糖分の過剰摂取を心配することもないから、私は当たり障りない返事をした。 「そうだね。たまに飲むと、シューッとしたのど越しが爽やかだね」 1日にコーラ5本は多すぎる 翌日ホームに行くと、別の受付の女性が話しかけてきた。 「お父様、今日、午前2本と午後3本でコーラを5本もお買いになっていました」 「えっ??」 私は驚いて、素っ頓狂な声を上げた。 「5本は多すぎますよね。父に注意しておきます」 受付の人は気を遣った表現で私に提案した。 「お父様のお金を使って買っていらっしゃるわけですから、止めづらくて…‥1日2本までとか、森さんとお父様でルールを決めていただけると、私たちとしても飲み過ぎを注意できるのですが…‥」 おっしゃる通りだ。父の居室に行って一番先に、ごみ箱を確かめたが、コーラの缶は入っていない。5本もロビーで飲んでしまったらしい。次に父の小銭入れを見た。焼き芋などを買いに行く時のために、常に小銭を2,000円程入れてあるのだが、1,250円しか残っていない。 ロビーの自動販売機の缶コーラは150円。受付の人から報告を受けた通り、5本分お金が減っている。いくら内科的には健康な父でも、1日にコーラ5本は多すぎるから注意することにした。 「パパ、受付の人に聞いたのだけれど、今日ロビーでコーラを飲みながらおしゃべりしていたんだってね」 「あぁ、女性ばかりだけど、話しかけてくれる人がいたからしばらく座っていた」 「楽しくて良かったね。でもね、コーラを5本も買ったんだって? 飲み過ぎだと思うけど、パパはどう思う?」 父は明快に答えた。 「まさか! コーラを1日に5本も飲むのは体に悪い。本当に俺が買ったのか? 明日から1本にしなければならないな」 コーラブームが早く終わるといいのだが。 (つづく) 【漫画版オーマイ・ダッド!父がだんだん壊れていく】第一話はこちら