『おいしいごはんが食べられますように』で芥川賞を受賞された高瀬隼子さん。高瀬さんの最新刊『新しい恋愛』では、さまざまな年代や立場から〈恋愛〉の側面を捉えた5つの物語が収録されています。昨年『恋愛社会学』を刊行された高橋幸さんに本書の書評「苛烈な恋にどう向き合えばいいのかを私たちは知らない」をご寄稿いただきました。一見奇妙な狛村の愛の形が印象的な「あしたの待ち合わせ」を考えます。 高瀬隼子の短編集『新しい恋愛』は2022年から24年に書かれた5篇の短編からなる。性教育を習うように、恋愛についても小中高の義務教育内で習うようになった近未来的な状況を描いたのが、書名にもなっている「新しい恋愛」であり、おそらくこれが最も賛否を呼ぶところだろう。高瀬自身はじゃっかん皮肉っぽく書いているようにも見えるが、私は「まあおおかたこれが来たるべき近未来だよな」と思いながら読んだ。皆さんのご意見をお聞かせいただきたい。 それよりも個人的により強い関心を持ったのは「あしたの待ち合わせ」である。なにげなくサーッと読んでしまった人もいるかもしれないが、これはすごい作品だ。これがいかに現代的で不気味で興味深いのかについて、以下論じたいと思う。 恋愛の周辺に立ち現れる「不気味な他者」 雑踏の中からぬっと現れる不気味な他者は、都市を舞台とする近代文学において繰り返し描かれてきた。自分にとって重たい嫌なものだけれど、自分が自分である限り無視することのできない何か。それらを「自己の闇」と呼ぶとすれば、近代文学はそれを都市空間に現れる不気味な他者の姿として描くということを一つの方法としてきた。 夏目漱石の「島田」(『道草』)しかり、芥川龍之介の「レエンコオトの男」(『歯車』)しかり。この系譜に連なるのが高瀬隼子の短編「あしたの待ち合わせ」(『新しい恋愛』所収)に登場する「狛村(こまむら)」である。 島田は、個人主義的に生きようとする主人公に対して「育ての親への恩義を忘れるな」と迫ってくる日本的(共同体主義的)な存在であった。「レエンコオトの男」は、孤独に心を病んでいく主人公がふり払うことのできなかった「死の影」の具体的な姿である。 そして、狛村。 狛村は、主人公のかな子に「苛烈な恋」を向け続ける人物である。この他者との関係で、かな子という自己の闇がくっきりと浮かび上がってくる。愛に応えられない罪悪感、罪悪感を持たされる形で恋愛に巻き込まれることへの苛立ち、自分の恋愛のうまくいかなさ、人生のままならなさ。現代的な自己の闇は、このような恋愛を通してこそ発生している。詳しく見てみよう。 ストーカーでも待ち伏せでもない何か 狛村と主人公・かな子の出会いは、大学1年生。同じ学科の友人である。狛村がかな子のことを「好き」であることは誰が見ても明らかであり、かな子にも伝わっており、なんなら言葉で「かな子ちゃんのことが好きで」と伝えたこともある。だが、かな子にその愛は伝染しなかったので、かな子は別の人と付き合ったり別れたりを繰り返してきた。つまり、狛村が一方的にかな子のことを好きという関係が続いたのが大学の4年間だった。 社会人になっても狛村はかな子のSNSをチェックしており、かな子がSNSでつぶやいた場所に数日後、狛村は現れる。まるで聖地巡礼のように。かな子がいたという情報によって色づく雑踏の風景を楽しむように。そんな関係がもう10年も続いて33歳になった。 従来の枠組みで言えば、狛村の行動は「ストーカー」の「待ちぶせ」のようにも見える。だが、狛村は直接会って喋ったり距離を縮めたりしようという意図を持っていないようであり、かな子もとくに恐怖を感じているわけではないようだ。 さて、このような狛村の愛をどう捉えたらいいのだろう? 色々な反応があると思う。なんとなく狛村を批判したくなるような、でも迷惑をかけない範囲の愛なら問題ないよな、とも言いたくなるような。 アイドルに対して持つべき愛をリアルな対人に持ってしまったケースと言えば、ひとまず整理できたような気になれる。カテゴリーミステイクな愛の実践をしているところが狛村の「不気味さ」だ、と。 もしくは、思いを伝えても両思いになれなかったのなら、「好き」をきちんと諦めるべきなのでは? と考える人もいるかもしれない。好きでいつづけることは相手にとって「迷惑」であり一歩間違えると「暴力」になるから、実らなかったら諦めるというのが対人的な恋愛のルールなのでは、と。 だが、私はこのどれにも賛同できない。そう割り切って済ませるわけにはいかないのが狛村という人物なのだ。狛村は、かな子に恋人がいても、それが不倫であっても、妊娠中絶しても、かな子が不倫相手の妻から請求された慰謝料を支払ったあとでそれを友人に面白おかしく語ってみせても、つまりかな子が何をしても、ずっと変わらぬ愛をかな子に向け続けている。これは「かな子そのもの」を愛しているという以外の言い方が見つからない何かであり、その意味で狛村の愛は「無条件の愛」とか「博愛」の方に近い。が、そう言い切るには、かな子という個人への性的欲望を含んだ愛の要素が強すぎる。狛村の愛は「変わらぬ愛」なのだが、なにかこう「大きな愛で包み込む」みたいな雰囲気の愛では全くない。 つまり、狛村の愛は、従来のどの「愛」の概念にも当てはまない。これが狛村という他者の現代性である。 あえて狛村の愛の形に名前をつけるなら「自律的な愛」だろうか。愛の対象(=かな子)の変化や環境の変化による影響をあまり受けずに、一度確立したメカニズムで作動し続けるシステムとして、狛村の愛は成り立っている。かな子にかんすることに温かな感情を持ちつづけ、かな子のSNS投稿に反応し、聖地巡礼し、年に数回かな子にメールをし、友人と共にかな子に会えるチャンスがあれば積極的に会うという一連のシステムとして、狛村の愛は成り立っている。機械のように安定的に作動し続けて、生き続ける自律的な愛。 私たちはだれしもが多かれ少なかれ「自律的」な個人(すなわち、一度確立した自分のメカニズムで動き続ける存在)として生きているのだが、狛村の場合、それが対人的な愛の領域にも及んでいる。現代ではけっこう多くの人が、このような愛の形を持ち始めているような気がしており、リアリティがあるなあと私個人としては思った。 他者が向ける愛によって生まれた自己の「闇」 いずれにしてもここで重要なのは、主人公のかな子が、このような狛村という他者をどのように捉え、狛村とどのような関係を築いているのかである。 かな子は、狛村の愛を「苛烈な恋」と呼び、「受け取っただけで、見返りを求めてもいいと思った」と述べている。また「好きって伝えてくる人たちは、それを伝えられる側の気持ちの責任は取ってくれない。想像はするだろうし、推し量ることもあるのだろうけど、関係ないのだ」とも述べている。苛立っている。とにかく苛立っている。 そして、この苛立ちが自己の「闇」を作り出す。狛村が持っている「好き」という気持ちは、真摯で純粋でとても大切なものだと感じるが、その愛に応えて愛を返すことができない場合、愛を受け取ることは同時に申し訳なさや罪悪感を抱え込むことになる。それが、かな子の苛立ちになっているように見える。 狛村に愛されることそのものが迷惑だという問題なのではない。 一心に向けられる、大きく膨らんだ「熱すぎる」愛にどう向き合えばいいのかが分からないことが問題なのだ。どうすれば罪悪感に押しつぶされることなく狛村の気持ちにきちんと向き合えるのか。どんな会話をすれば、狛村は自分の気持ちに向き合ってもらえたと思えるのか。狛村自身もよく分からないまま、ただ駆動され続けることをかな子への「愛」だと理解しているように見える。その無責任さにかな子は苛立っている。 「推し」に対しても対人的な恋愛においても、まっすぐで激しくて強い「苛烈な恋」は、資本主義とSNSメディア環境によって加熱(ヒートアップ)している。でも、このような気持ちにきちんと向き合う仕方を私たちはまだよく知らない。だから結局、個々の場面でそれぞれの女性たちが対処することを迫られる(「かな子」が女性形の固有名詞なので、ここでは女性としたが、女性に限らないかもしれない)。自分が望んだか否かにかかわらず、恋愛対象にされ、恋愛に巻き込まれ、その相手の気持ちに対処する責任を負わされる状態。ケアという女性役割を恋愛において押し付けられる状況。かな子が苛立っているのは、このような状況に対してであるとも言える。 この状況の中で、かな子は恋愛や性をめぐる制御感(自分が状況をコントロールできているという感覚)を失い、自分の気持ちに向き合うことが難しくなっている。かな子は、狛村から「苛烈な恋」を罪悪感とともに受け取ったことの「見返り」として、自分は狛村に対して「勝手をする資格」があるのだという嗜虐的な気持ちになる一方で、自分が何をしても変わらない狛村の愛を、自分の心の支えにするようにもなる。「心の支え」にしてはあまりにも投げやりで痛々しい仕方で。こうしてかな子の闇は深まっていく……。このあたりは人間の闇をホラーのように描きだす高瀬作品の醍醐味でもある。 ”愛の形”に留まらない新しい物語を 都市の雑踏のなか、ほの暗くなるようにして周囲から浮いているところにぼおっと見える狛村の姿は、追いつめられた精神が見る他者の姿である。「レエンコオトの男」を見てしまう芥川の主人公がそうであったように、かな子もまた孤独にひどく追いつめられている。 愛を返せないかな子が悪いわけではない。 かな子を愛する狛村が悪いわけでもない。 必要なのは、「苛烈な恋」に向き合う方法である。 自分が求めるような愛の関係を結べず、お互いの気持ちがすれ違ってしまったとしても、相手を愛することができてよかったと思えるような、そういう多様な愛の形。自分や相手の気持ちにきちんと向き合う多様な仕方。ハッピーエンドという画一的な型に収まるのではない多様な幸福な愛の物語。それが、いま必要なものだ。 内側の「底なしの穴」と外側のフィクションの世界。朝井リョウさんと高瀬隼子さんの小説をめぐる対話