自閉症の子どもたちが将来自立できるように促す「療育」。その療育に生涯を捧げた医師がいます。2025年2月、83歳で亡くなった河島淳子さん。画家やアスリートも育んだ、その方法が注目されています。 【写真を見る】「譲ってはいけないところは譲らない」生きる力を育む、自閉症の療育に生涯を捧げた医師【報道特集】 自閉症の療育に生涯を捧げた医師 「自閉症の療育」をテーマにした映画が、今、全国で上映されている。 モデルになったのは医師の河島淳子さん。河島さんを演じたのは檀ふみさんだ。 河島さんは、自閉症に対して独自の療育を考案。映画では、その療育法で「自閉症の画家」石村嘉成さんを育んだことが描かれている。 映画が公開されて以来、河島さんの療育に救いを求める人が増えたという。 河島さんは2月に83歳で急逝した。教え子の画家・石村嘉成さんが、舞台挨拶で追悼した。 画家 石村嘉成さん(30) 「河島先生、長い間ありがとう。厳しい療育、いろいろお世話になりました」 療育の道を選んだのは“自身の経験”から 河島さんの生前の映像がある。3年前、療育の現場にテレビカメラが入ることを特別に許された。 愛媛県新居浜市の「トモニ療育センター」には、河島淳子さんが約30年前に設立して以来、全国から800人あまりの自閉症をはじめとする発達障害の子と親が訪れている。 取材した日、河島さんは通い始めて間もない親子に療育の基本を手ほどきしていた。 2歳で自閉症と診断された奥野弘光くん(当時5)は、静かに座っていることができない。 河島さんは記録用のカメラ越しに指示を出し、副所長の高橋さんが弘光くんを指導する。 河島淳子さん 「指示が通ることが社会性の第一歩。それができない子は育たない。親の指示が通ることが大切」 自閉症は脳の機能障害と考えられ、自閉症特有の「学びにくさ」があるため、言葉や知的発達、運動機能の遅れなどにつながりやすい。さらに、教えることを諦めると、社会性が身につかないおそれがある。 河島さんは、言葉や運動を教え、障害による生きづらさを解消しようと考えた。 まず、学ぶ姿勢を身につけることから始める。 河島淳子さん 「手はひざ、ひざです。手はひざ」 河島さん独自の療育は、自らも自閉症の子を育てた経験に基づいている。 河島淳子さん 「これはねワンピースに仕上げているのでいつまででも着られる。すごく便利だし、これだけ着ていつも仕事をしています」 ーーワンピースに仕上げたのはどなたですか? 河島淳子さん 「息子の河島高浩です」 河島淳子さんは岡山県笠岡市の出身。岡山大学医学部を卒業後、小児科医になった。 3人目に生まれた高浩さんは重い自閉症だった。 河島淳子さん 「一緒に写真を撮ろうとしてもこっちを向かない。多くの人がおとなしくていい子だというけど、そのおとなしさがくせものだと思っていた」 高浩さんは同年代の子どもに比べ、言葉の遅れが目立ってきた。海水浴に行くと… 河島淳子さん 「(海の)深いところで、ぽんと置いたんです。子どもは、うーっと顔をあげただけ。手も動かさなかった。思わずもがくということをしなかった。自分の身体を適切に使うということも知らない子どもなんだということが分かったときに、それまでの医学への未練を断ち切って、ここからはこの子のために生きていこうと心を改めました」 河島さんは、高浩さんの運動機能を伸ばそうと、2人で山を歩いた。 河島淳子さん 「自閉症の子どもそのものが社会性を持っていないとか、コミュニケーションができないとかいろいろと言われるけれど、そういうものを抜きにしたら山の中はフリー。まるで水を得た魚のように自然体になって、帰ってくるとそれ自身が薬以上の安定剤になっていると思う」 高浩さんは逞しく成長した。 言葉や数の概念は、手作りの教材で教えた。その経験をいかした教材を、改良を加えながら今も使っている。その教材のひとつが百並べだ。 河島淳子さん 「まず数字の百並べをしましょうということで、『1』と言って数字が書かれたカードを持たせ、手を添えて置かせていく。子どもの手に渡しては『2』ということで置いていく。『100枚置けました』と言われた通りに置いていく。1から10、11から20という並びに気が付いて、わかっていくという課題」 河島さんは、社会生活に最も必要なのは数の概念だという。数がわかればお金の計算ができる。お金の計算ができれば買い物ができる。数字がわかれば時計が読める。時計が読めれば予定が立てられるからだ。 高浩さんは、数の概念や手先の器用さが必要な洋裁の技術を身につけた。 自閉症ならではの「こだわり」で、几帳面に仕立てられた洋服は好評だ。人の役に立っているという自己肯定感が、さらなる成長を促す。 河島さんは、重度の障害があっても適切な療育ができれば、やがて大きく花開くという。 河島淳子さん 「何が出てくるかわらないというか。子どもたちへの療育は宝石を見つけるというか、そういう感じがします」 画家になった教え子 療育で得た“集中力” 河島さんの療育で画家として花開いたのが、石村嘉成さんだ。 画家 石村嘉成さん 「まず白いところで少しなじませて少しずつ落として、ちょっと力加減が少し難しいので、少しずつ加減しながら間をあけて、まるでメイクしているみたいな感じで。今回一番難しかったところは塩梅。声の大きさと同じ、色の置き方の調節でした」 幼いころから大好きな動物を、鮮やかな色彩で描く。 高校時代の美術教諭 寺尾いずみさん 「どうして羊を白くしなかった?」 石村さん 「おしゃれにしたかったから。おしゃれなお姫様風に、着物を着ているお姫様にしたいなと」 自閉症には、コミュニケーションがとりづらい特性があるといわれるが、嘉成さんはやりとりを楽しんでいるようだ。 父親の和徳さんは、嘉成さんは決して軽度の自閉症ではないという。 父親 石村和徳さん 「1歳2か月ごろから突然、それまで真似していたことをしなくなったり、呼んでも振り向かない。遊ばせても、あやしても笑わない。目が合わないからどうしていいのかもわからない。それまでは単語もしゃべるし、犬の前に行ったら『わんわん』と笑ったり。母親が『こんにちは』と言えば、にこにこしながら『こんにちは』と。そういうやりとりが成立していた。1歳2か月ごろから全くなくなりました」 嘉成さんのように、一旦は順調に話せていた言葉が、あるときを境に徐々に消えてゆく症状は、自閉症のなかでも「折れ線型」といわれ、比較的症状が重いことが多いという。 父親 石村和徳さん 「いろんな所に行きました。でも、『小さいので様子を見ましょう』って言うところも少なくなかったんですよ。様子を見たら治ると、専門家が言う。一番改善できる一番いい時期を逃すんですよ。その悪魔のささやきによって。それを本当に理論づけて体系づけて教えていただいたのが、その時出会ったトモニ療育センターの河島先生です」 28年前、嘉成さんが初めてトモニ療育センターを訪れたときの映像が残っていた。 なんとか椅子に座らせようとするのは、若き日の河島淳子さんだ。 言葉が使えず、泣きわめくことでしか自分の思いを伝えられなかった2歳の嘉成さん。3年後、落ち着いて課題に取り組んでいる。 その背景には、河島さんの療育を忠実に実践した、母親・有希子さんの献身的な努力があった。日々の療育を記録する膨大なリポート。有希子さんが河島さんの指導のもと書き綴ったものだ。 療育に取り組み始めた頃に記録したリポートより 「できるようになった課題については嘉成が勝手にアレンジし自分流を通そうとする。何事も自分の思い通りには運ばないことを教え、周囲に合わせる気持ちを育てていきたい」 「学びづらさ」のあった嘉成さんに、有希子さんは、粘り強く言葉や数の概念を繰り返し教えた。 小学4年になると、クラスメイトの前で堂々と音読。得意気な表情だ。 しかし、療育の成果を感じはじめた矢先、有希子さんは病で他界。嘉成さんが11歳のときだった。 その後、和徳さんが療育を受け継ぐことができたのは、有希子さんが遺した膨大なリポートがあったからだ。 父親 石村和徳さん 「自閉症について療育について、仕組みというか、知識が無ければ、意識は変わらないと思うんですよね。それを勉強する為にも、すごく重要だったと思います。そのレポートっていうのは」 嘉成さんの粘り強さや集中力は、有希子さんが亡くなった後も消えなかった。その力が、画家としての成功を手繰り寄せた。 父親 石村和徳さん 「日常生活を獲得することができたら、彼らは、息子の場合は動物が好きだったから動物を描きましたが、どんな面白い能力が出てくるかわからないと思ってるんですよ。どの人にもあてはまることだと思います。きちんと学ぶ姿勢ができていたからこそ手を差し伸べてもらえた。そこまでいくのが重度の自閉症の子には難しい。もしそこまでいけたらいろんな面白い能力が出てくることは十分にある」 人前でしゃべれなかった少女 転機の瞬間 河島さんの療育は、パラアスリートも生んでいる。 山本萌恵子さんは、リオ、東京、パリのパラリンピックに出場。リオと東京では7位だった。 取材した日は、雨。 母親 山本忍さん 「本人は、今日もすごい雨が横殴りだったので中止って伝えたら、とても怒っています。負けてられないと思ってくれていると思います」 萌恵子さんは、幼いころ人前で全くしゃべろうとしない一方で家族の前では、意に沿わないことがあると泣いて手がつけられなかった。 母親の忍さんはこう語る。 母親 山本忍さん 「病院では薬漬け。病院で『この子寝てばかりです』と言ったら、『寝ていてくれたら落ち着いていいんじゃないですか』って言われたときに、娘とともに一緒に彷徨い続けていました」 萌恵子さんが中学1年生のとき、知人の紹介でトモニ療育センターを訪れた。 この日は、物語を交互に音読する「交互読み」に取り組んだ。 母親 山本忍さん 「『交互読みが終わらなければきょうは帰れません。お母さんだけに帰っていただきます』って言ったんです。でも、書くんですけど、書くのにすごく時間がかかるんですよ。『もう帰りの電車の時間が近づいてきます。もうお母さんタクシーにのって帰ってください』っていう風に河島先生がおっしゃったら」 「声を出したんですね。その大きな壁を乗り越えさせる。それは虐待じゃないです。虐待じゃなくてその子が生きていくための導き。もう本当にそのときの第一声がなかったら次の言葉は出てこなかったと思うんですよね」 河島さんの療育は、時に「厳しすぎる」「虐待ではないか」と批判を受けることもあった。 母親 山本忍さん 「いろんなことをおっしゃる方がいると思うけどそれは違う。達成感とか自己肯定感とかそれを得るもの、そこを支援だ支援だといって手助けしてできないようにするんじゃなくて、できるようにしていく。そこは絶対に河島先生ならではのご指導だと思う」 「20年経ったときに感謝されたら」 受け継がれる信念 障害があっても、「学びたい」「伸びていきたい」という気持ちは必ずある。 河島さんは、それを信じて諦めない限り、希望があるという。 河島淳子さん 「譲ってはいけないところは、譲らない。私自身が厳しくて親は泣く場合もありますけど、厳しく迫らないと母親の心に響かない。いつも言うのは、10年か20年経ったときに感謝されたらいいと思う」 教え子のひとり、石村嘉成さんの療育を描く映画「青いライオン」が公開され、河島さんの療育が注目される中、河島さんは急逝した。 生前、嘉成さんの活躍や映画化についてこう話していた。 河島淳子さん 「いま自閉症の子どもを持って、闇の中にいるような人たちに、私はいま接している。本当に大きな希望になるし、たとえ才能が無い人であっても人間らしく、人を幸せにする、そういう願いを持ちながら生きていくことができる。そこへまた、応援する人たちが出てきて、応援する人たちこそが励まされて、本当に社会がよくなっていく、一つの原点を見るような気持ちでした」 河島さんの信念は受け継がれている。 はじめは静かに座っていられなかった奥野弘光くんも、4か月後には、漢字を学習できるようになった。 弘光くんの母親 奥野充子さん 「河島先生が『この人たちはきちんと療育をすれば国の宝になる』っていうことを言われたんです。『決められた仕事はきっちりやる、人の悪口も言わない。素晴らしい人材になる』と言われている。社会の中で生きていける子になるように、頑張って育てていきたい」
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