私たちはなぜ眠り、起きるのか?睡眠は「脳を休めるため」ではなかった?生物の“ほんとうの姿”は眠っている姿? いま、気鋭の研究者が睡眠と意識の謎に迫った新書『睡眠の起源』が、発売即3刷と話題だ。 「こんなにもみずみずしい理系研究者のエッセイを、久しぶりに読んだ。素晴らしい名著」(文芸評論家・三宅香帆氏)、「きわめて素晴らしかった。嫉妬するレベルの才能」(臨床心理士・東畑開人氏)といった書評・感想が寄せられるなど、大きな注目を集めている。 (*本記事は金谷啓之『睡眠の起源』から抜粋・再編集したものです) 「一つの神経細胞が眠る」かもしれないというアイデアは、これまでの睡眠に対する考え方とは相反する側面もある。 アメリカ・ウィスコンシン大学のジュリオ・トノーニは、「睡眠のシナプス恒常性仮説」と呼ばれる仮説を発表している。生き物が眠る理由をひもとくカギを、シナプスが握っているというものだ。 睡眠とシナプス 眠りの根源に迫るにあたって、この「睡眠のシナプス恒常性仮説」を深掘りしてみたいと思う。それにはまず、私たちの脳の中の配線構造、つまり神経細胞同士の接続について詳しく紹介する必要がある。 私たちの脳内には、1000億個以上もの神経細胞があり、互いに接続して回路を形成している。それが、私たちの脳の活動のしくみだ。まるで人と人が手をつなぎ合い、一人の興奮が、手をつないでいる相手に伝わっていくかのようである。神経細胞同士が接続している部分、つまり手のつなぎ目を、「シナプス」と呼ぶ。 神経細胞同士が接続しているといっても、ほとんどの場合、神経細胞同士が融合しているわけではない。それはちょうど、手をつないでいても、体が融合してつながっているわけではなく、別々の人の手として存在しているかのようだ。シナプスで神経細胞同士が融合しているのか、それとも別個の神経細胞として隔てられているのか、かつて激しい議論があった。 神経細胞同士は融合していると唱えたカミッロ・ゴルジと、別々の神経細胞として隔てられていると考えたサンティアゴ・ラモン・イ・カハールという二人の学者の間で、大きく対立したのだ。 二人が対立した1900年代、この議論の決着はつかず、1906年には相反する説を唱えた二人が同時にノーベル生理学・医学賞を受賞するという“珍事”も起きた。論争は続いたが、電子顕微鏡という、非常に微細な構造を観察することができる技術が登場し、カハールの唱えた説が正しいことが示された。シナプスで神経細胞同士は融合しておらず、別々の細胞として隔てられていることが分かったのだ。 それでは、なぜ手をつないでいるだけで興奮が相手にも伝わるのだろう?興奮の熱気だろうか。それとも何らかの念力とでもいうのだろうか──。 手のつなぎ目では、物質が伝達されている。神経細胞が興奮すると、シナプスで接しているもう一方の神経細胞も興奮するように、シナプスの間を物質が伝達されるのだ。ある人が興奮してシグナルを発すると、手をつないでいる相手が、それを受け取って興奮する。伝えられる物質の種類によっては、逆に相手の興奮を鎮める場合もある。 シナプスは手と手のつなぎ目であることは確かだが、実際脳のなかで起きていることはもっと複雑である。手のつなぎ方は一対一ではなく、一対多であり、そして多対一であるのだ。どういうことかというと、神経細胞は手をつないでいる他の多くの神経細胞に対してシグナルを発し、それと同時に多数の神経細胞からシグナルを受け取っている。 そして重要なことに、シナプスの接続は常に変化している。接続が強くなったり、弱くなったりするのだ。そうした変化をシナプスの可塑性と呼ぶ。よく使われるシナプスの強度は増していき、使われないシナプスの強度は弱くなっていくのだ。こうしたシナプスの可塑性は、私たちの記憶に関わっている。経験したことを脳に記憶する。そして経験をくり返すことでできなかったことができるようになる。そんな脳の可塑性は、シナプスの可塑性によって脳の接続が更新されるからだ。 トノーニの唱えた仮説では、シナプスのホメオスタシス(恒常性)に睡眠が関わっているとした。ホメオスタシスは、生命がある一定の状態を保とうとする性質である。生き物は定常状態から外れると、元の安定な状態に戻そうとする。エアコンが設定温度に向けて、パワーを調整しながら自動運転するかのように。睡眠という現象自体にもホメオスタシスの性質が備わっている。眠りが不足すれば、不足した分を補うように眠らせようとする力がはたらく。 ホメオスタシスの性質は、シナプスの可塑性についても当てはめて考えることができる。起きている間、私たちはさまざまな経験をして、シナプスの接続強度が強まっていく。接続が増せば、どんどん頭がよくなっていくかといえば、そうでもない。シナプスの接続を維持するにはエネルギーが必要であり、適切な接続強度がある。それが、シナプスのホメオスタシスだ。自閉症や統合失調症などの疾患では、シナプスのホメオスタシスが乱れることが知られている。 トノーニの唱えた「シナプス恒常性仮説」──それは、起きている間にシナプスの結びつきが強まり、そうやって増強された接続が眠っている間、とくにノンレム睡眠中に弱められるというものである。私たちは、神経細胞同士の接続を、ちょうどいい具合に管理するために眠っているのかもしれない。 未だ一つの仮説に過ぎないのだが、それを支持する実験結果も多い。最近になって、ゼブラフィッシュが眠っている間にも、シナプスの数が減るような変化が起きていることが分かった。さらに、睡眠のコントロールに関わることが報告されている遺伝子のいくつかは、シナプスではたらくタンパク質の設計図なのだ。実際、マウスの脳の前頭葉で人工的にシナプスの結びつきを強めると、睡眠が誘導されるという報告もある。 私たちはなぜ眠るのか?その謎のヒントは、シナプスに隠されていそうだ。もし、ゾウリムシのように神経細胞が一つしかなかったら、やはり眠る必要はないのかもしれない。 睡眠は「脳の誕生」以前から存在していた…なぜ生物は眠るのか「その知られざる理由」