「今思うと、受診前に自分で子宮頸がんについてもう少し調べて、どんな病気か理解していたら、受け止め方も違って、もう少し客観的になれたかもしれません……。でも、まさか30歳でがんになると思っていませんでした。子宮頸がんの知識だけでなく、がんの知識もありませんでした……」 というのは、女優の原千晶さん。原さんは、今から21年前(2004年)、30歳のときに子宮頸がんが判明し、34歳で「子宮体がん」を発症しました。恋愛、結婚、仕事、妊娠、出産など、人生のライフイベントを控える年齢で子宮に伴うがんに罹患することは、病気による恐怖はもとより、描いていた将来の人生設計が大きく変わってしまうことも……。原さんもそんな渦中で、がんが判明したのです。 今回、長年同じがんサバイバーとして、活動を含め友人としても交流してきた乳がんサバイバーで美容ジャーナリストの山崎多賀子さんが原さんに取材。親しい関係だからこそ伺えた話も含めて赤裸々に当時の出来事や想いを語っていただきました。 第1回後編では、子宮頸がんが判明した頃の原さんの状況と、「子宮全摘」と言われたときの混乱した想いについて引き続き伺います。 「がんの告知」で味わった初めての精神状態 ——病気がどんなものかよくわからない状況で、「がんである」「性質がよくない可能性があるから子宮を全摘する」と告げられたら、あまりに非現実的に思えて、混乱しかなかったのは当然な気がします。 原千晶(以下、千晶):医師は「今日決めるのはあまりにも酷だから、1週間考えてください」と言った後、さらに念を押すように「今なら子宮を取るだけですみますから」と付け加えました。医師の、「今なら」という意味が理解できず、ダメ押しされた気持ちで、母と診察室を出ました。 私はその日の最後の患者で、病院の誰もいない待合室の長い廊下が視界に入った途端、急に過呼吸になって、泣きながら卒倒しちゃったんです。看護師さんが飛んできて私の口にビニール袋を当てながら、「息をしてください。呼吸をしてください」という声が聞こえて、母は黙って背中をさすっている。私は卒倒したのも初めてで……。混乱しているのに、大きなショックを受けると、人はこんなにふうになるんだ……と思ったのを、映画のワンシーンのように覚えています」 ——なんか、すごくよくわかります。がんやがん治療の告知は非日常すぎて、独特な精神状態になるものですよね。私も乳がんの告知も乳房を失うという現実も、しばらく脳は拒否していたし、「抗がん剤治療をする」と言われた日、燃えるような紅葉の道を涙ぐみながら運転して帰ったときの景色や流れていた音楽が今も焼きついています。 当時の煮詰まった恋愛とがん告知が重なって…… ——子宮頸がんと告知されて、千晶さんにとって、たくさん辛いことがあったと思うのですが、ここは一番きつかったというのはどんなことでしたか。 千晶:「がん」という言葉の恐怖と、子宮がなくなるかもしれない、というダブルの恐怖でしたね。いや、将来子どもが持てなくなる……このことがやっぱりとてもショックだったかもしれないです。 ——30歳といえば、恋愛、仕事、結婚、出産など多くのライフイベントを控えて、将来に夢や憧れ、目標をもつ年齢ですからなおさらですよね……。 千晶:本当にその通りで、切実でした。 ぶっちゃけて言えば、子宮を取ると言われたとき、まっさきに頭に浮かんだのは当時お付き合いしていた彼のことでした。病気の判明前からクールな思考の彼との恋愛がうまくいかなっていて、当時とても悩んでいて。そんな時にがんになるなんて……。これでこの恋愛は終わった……。彼との結婚はないなと、爆弾を落とされた心境になりました。 彼は年上で、夢に向かってすごく頑張っている時期でした。私に対しても理想が高く、甘えやつまずきをしたら嫌われると私は勝手に思って、理想の女性に近づくためにいつも気を張っていました。 がんになった私に寄り添ってくれないだろうな……と思いつつ、それでも彼を失うことが怖くて、「私を捨てないで、一人にしないで」、という心境にとらわれてしまい、もうハチャメチャでした。私が今過去に戻れたら、当時の自分に対して、目を覚ませと、ひっぱたいて説得すると思います(笑)。 50年間生きてきて30歳が一番きつかった 千晶:30歳という罹患年齢は、私にとってとても大きなポイントだったなと思います。ずっと走り続けてきた仕事に疲れてちょうど一年間休養していた時期で、逃げかもしれないけれど恋愛と結婚に賭けたかった。子どもも大好きで、いつか子どもを産みたいという夢があったので、それがすべて閉ざされると思うと、絶望しかなくて……。怖くて、何かにしがみつきたかったんだと思います。 ——それなりに仕事でキャリアを積んだ30歳前後に、「ターニングポイント」を感じる人は多いですよね。千晶さんは、モデルの登竜門と言われるクラリオンガールの優勝がきっかけで芸能界デビューしたんでしたね。 千晶:もともと芸能界に興味があったわけではありませんが、読者モデルをきっかけに事務所に入って、3ヵ月くらいであれよあれよとクラリオンガールになってしまい、見ている世界が変りました。オーディションで、美しい先輩方やモデルさんを見て、ステキだな、あんなふうになりたいと憧れを抱いて、芸能界で頑張ろうと思いまいした。 ただ想像以上に大変な世界で、最初は楽しくて、若さもあって周りから面白がれているけれど、だんだんこの先もやっていけるのかと不安があって。案の定仕事も自分が思うようには進まず疲れてしまい、一年間の休養を取っていたときに、子宮頸がんが判明した……。仕事と恋愛とがんのトリプルパンチでした。 今振り返っても、50年生きてきて一番苦しかったのが、30歳の時期でした。 ネガティブな情報が多く、PCも心も閉じた ——その苦しさがゆえに、医師からのがん告知のあと、子宮頸がんのことを調べるのをやめてしまったそうですね。 千晶:一応、本屋やインターネットで調べてみるのですが、当時の情報量はとても少なくて……。 今は、子宮頸がんは感染症であるという情報も丁寧に解説されていて、性交渉(性行為)によってどんな人でも罹患する可能性があること、女性だけでなく男性も子宮頸がんと同じ、原因となるヒトパピローマウイルス(HPV)によって、肛門がんや陰茎がん、中咽頭がん、尖圭コンジローマなどに罹患すること、HPVワクチンに関する情報もエビデンスに基づいた情報がきちんと入手できます。 でも、当時のネットでは、感染症という部分がゆがんで伝わって、子宮頸がんは異性との交流が盛んな人がなるという誤った情報も流れていて、ええ? 性病ってこと? と混乱しました。そういった情報を読めば読むほどに当時の彼にはそんなこと言えるはずもなく悪循環に陥りました。 しかも、その頃の私はがんの怖さより、なんでこんな病気になったんだろうという怒りのほうが強くて、相当ひねくれていました。著名な方の闘病記も、せっかく女性のために子宮頸がんを公表し書いてくださっているのに、子宮を失いたくないあまり、読んでも「私とは違う話!」と認めたくなくて……。次第に情報から遠ざかり、完全に蓋をしてしまい、絶対にがんであることを周囲に知られたくないと思いました。 ——当時は「がん=死」というイメージが今よりもずっと定着していて、著名人ががんになると、大きな話題になりましたよね。しかも、子宮頸がんに対する嫌な誤解もあった。「知られたくない」という気持ちがあって当然だったと思います。 そして、そういった思いから子宮全摘手術を受けない選択に変わっていったのですね。 千晶:今なら、子宮頸がんがどんな病気で、どんな経過でどんな治療が必要なのか、知識があります。今なら医師ときちんと話をして、治療を進めることができますが、当時の自分は、正しく理解することを全部すっ飛ばして、自分の気持ちを最優先にしてしまったんです。 「どうしても子宮を取らなきゃいけないの?」と考えれば考えるほど、取らなくてもいいんじゃないかという気持ちが勝ってしまって。ある種、賭けという名の逃げだったのだと思います。 「先生は早期と言っているのだから何とか逃れられるだろう」「取らなくても再発しない可能性はきっとあるのだから、今取らなくてこの先何かあればそのとき子宮を取ればいい」って……。子宮全摘を選択することですべてを失ってしまいそうな気がして、「このままで大丈夫」なほうに賭けてしまったんです。 ◇手術直前に原さんが下した決断、そしてその後想像しなかった病状の進行など、第2回(前後編)でお伝えする予定です。 原千晶さん 北海道帯広市生まれ。1994年に芸能界デビュー、TVや雑誌などに、ドラマ、バラエティーでのMCなどマルチに活動。30歳で子宮頸がん、その後35歳のときに再び子宮体部と頸部にがんが見つかり、広汎子宮全摘出術と抗がん剤治療を行った。2011年7月に婦人科がんの患者会『よつばの会』を設立し活動している。よつばの会https://www.yotsuba-kai.com/ 友だちが強引に病院を予約しなかったら……女優・原千晶が語る子宮頸がん判明のいきさつ