新年度を迎える中、大手企業の初任給引き上げが相次いでいる。三菱UFJ銀行や野村証券は初任給を30万円に引き上げ、大和ハウス工業は10万円ものアップを公表した。いまや「初任給30万円時代」とも言われる中、企業はいかに対応すればいいのか。労働市場の動向に詳しく『ほんとうの日本経済』(講談社)などの著書があるリクルートワークス研究所研究員・アナリストの坂本貴志氏に訊いた。 【写真】7〜8社から内定をもらうのは当たり前、“拘束日”にハワイに連れて行かれた学生も…髪型はソバージュでスーツも“黒一色じゃない”バブル入社組の就活風景 初任給の引き上げについては、最近急速に動きが強まっているように見えます。実際、データを見てみると、人事院が公表している大卒初任給のデータでは、2024年の最新データで22万円となっており、前年の21.1万円から跳ね上がっています。2025年の数字はさらに大きくジャンプアップすると予想されます。 世代間格差が問題に? また、初任給の引き上げ率に関するデータもあります。リクルートワークス研究所のデータでは、2023年には引き上げを行う企業の割合が全体の9割弱にまで達しています。このように、近年急速に初任給を引き上げる動きが広がっていることが、データからも裏付けられています。 なぜこのような動きが顕著になっているのでしょうか。背景には人手不足の問題があります。特に若年人口が徐々に減少していく中で、人材獲得競争が激化し、企業は魅力的な待遇を用意しなければ人材を採用できない状況になっています。市場の需給バランスから、賃金を上げないと人が採れないという状況に企業が直面しているわけです。 ただし、この動きは突然起こったわけではありません。時系列で見ていくと、少しずつ兆候があったことがわかります。2019年に働き方改革関連法が施行され、長時間労働の是正や残業削減などの待遇改善が進められてきました。 労働環境が徐々に改善されていく中で、労働者側の要望が「もっと働きやすく」から「高い賃金」へと変化してきているのです。そして、人手不足で若い人材の採用に腐心する企業が、労働環境の改善から賃金そのものの引き上げへと方針を転換してきたと言えるでしょう。 大卒人口が顕著に減少 初任給引き上げの背景には、大卒人口の減少も関係しています。人口推移データを見ると、70代半ばの団塊世代、50歳前後の団塊ジュニア世代、その子供世代にあたる20代半ばの世代は人口ボリュームが前後に比べ大きいので、その前の世代に比べ、人口減少がそれほど激しくなく一服していたことが見て取れます。さらに大学進学率も上昇してきたため、大卒人口という意味では近年、それほど減っていませんでした。 しかし、さらにその次の世代が就職世代となり、大卒人口が顕著に減少し始めています。団塊ジュニア世代の子供たちが社会人になっていく中で、大卒人口自体が急速に減り始めているのです。この影響は今後さらに大きくなっていくでしょう。 そうした事情から、今後、初任給の引き上げ傾向は加速していくと考えられます。就職市場は新卒の学生を採用したい企業にとってますます奪い合いの様相を呈し、需給が逼迫すれば賃金は上がらざるを得ません。現在の初任給アップの動きは、むしろ始まりに過ぎないと言えるかもしれません。 ただし、初任給の引き上げには課題もあります。既存の従業員との整合性をどう取るかという問題です。初任給を引き上げれば、世代間で賃金格差が生じることが予想されます。例えば、新卒と就職氷河期世代との間に大きな差がつくような現象が起こり得るのです。 若い世代にとっては就職に有利な状況が続いており、待遇も改善されていくでしょう。一方で就職氷河期世代は、人口のボリュームが多く就職が厳しかった時期に社会に出たため、賃金水準が抑制されてきました。また、非正規労働者として就労せざるを得なかった方も多くいました。こうした事情から、世代間で不均衡が生じてくるのです。 賃金カーブのフラット化 さらに、日本企業の場合、賃金カーブの問題もあります。従来、日本の多くの企業では、若いうちは仕事のパフォーマンスに比べて低い給与に抑え、中高年になるとパフォーマンス以上の報酬水準を設定する、いわゆる後払い賃金制度が一般的でした。この右肩上がりの賃金カーブは日本の特徴として現在も根強く残っています。しかし、企業としてはこの賃金カーブを修正したい、実際のパフォーマンスに近い形、つまり、よりフラットな賃金カーブに修正していきたい。ただし、急激に修正してしまうと世代間で損得が発生してしまうため、なかなか難しいです。 そこでこの初任給アップをきっかけに、各企業が中高年層の賃金水準を比較的抑えながら、若い層の賃金水準を引き上げていく方向性を採ることが考えられます。つまり、働いている人のパフォーマンスに見合った賃金に近づけていくということです。中高年の賃金を下げることは難しいですが、上げないことは人事としても実現可能だと思います。このため、物価上昇局面で賃金を据え置くことで、中高年社員の実質的な賃金水準が抑制されてしまうということが起こっている可能性があります。 今後、構造的なインフレーションが賃金カーブの修正を加速させる展開になっていくのではないかと予想しています。企業の人事部門でも、中高年の方が高い報酬を得ている一方でパフォーマンスがそこまで優れていないという問題意識を持っている方は多いようです。人事戦略としても、この点を是正していきたいと考えている企業が増えてくるでしょう。 では、企業は新入社員の賃金をどの程度、引き上げればよいのでしょうか。 正解はありませんが、一つの目安として、少なくとも物価上昇率を上回る水準にする必要はあるでしょう。現在の物価上昇率は3%程度ですので、例えば去年初任給が30万円だった企業であれば、今年は31万円程度に引き上げるというイメージです。最低限このくらいは上げないと、採用が難しくなる可能性があると思います。 生産性を上げていく必要性 一方で、初任給引き上げに伴う課題として、企業の利益圧迫の問題があります。賃金を上げれば当然コストは増加します。そのため、生産性を上げていく必要があります。また、企業の業績向上のために裁量労働制などの適用を拡大したいという意向も経済界にはあるようです。 企業側からすれば、労働時間規制を緩和してほしいという要望を持つのは当然のことです。一方で労働者側は、企業の思うようにされては困る。この対立の中で、どのようにバランスを取っていくかが課題となっています。 特に近年は働き方改革関連法の施行により、労働時間の上限規制が設けられるなど規制が強化されています。 ただし、労働時間の規制緩和には慎重な議論が必要です。確かに労働時間の上限規制が適用されて働けなくなっている人がいて、それが日本の経済成長を阻害しているという議論もあります。人手不足が深刻な中で、働きたいのに働けない人を放置していいのかという意見もあります。 しかし、労働時間規制の対象外となる人を増やすことには、労働者側から懸念の声も上がっています。企業の意向に関わらず自分で裁量を決められる人であれば問題ありませんが、そうでない人もいるでしょう。会社からのプレッシャーを受けて長時間働かざるを得なくなり、しかも残業代はもらえないという状況に陥る可能性もあります。 労働時間規制の緩和は、経済的な利益と労働者の権利保護のバランスを考慮しながら、制度設計を慎重に進めていく必要があります。 労働時間規制を緩和すべきか リクルートワークス研究所が実施した調査の中で「労働時間の制度や希望」をテーマに聞いたところ、「労働時間を自由に増やせるか」という質問に対し、正規雇用者の51.2%が「自由に増やせない」と回答しています。これは会社から残業を控えるよう指示されているケースなども含まれると思われます。多くの労働者が自由に働く時間を増やすのは難しい状況にあることがわかります。 ただし、その一方で、「労働時間を増やしたいか」という希望を聞いたところ、増やしたいという人はわずか6.3%にとどまりました。 さらに詳しく分析すると、労働時間を増やしたいと思っている人は、低収入の人に多い傾向があることがわかりました。要は「もっと稼ぎたい」人が労働時間を増やしたいと感じています。逆に、収入水準が高い人は労働時間を減らしたいと思う傾向にあります。年収1000万円以上の人でもっと働きたいという人はあまり多くはないのではないでしょうか。 人手不足が深刻化する中で、労働時間規制を強化する方向性は果たしてよいのかという議論は今後起こってくると思われます。欧州では労働時間への規制は厳しいですが、一定の適用除外(デロゲーション)も認められています。日本でもそうした形を目指すべきだという意見は出てくるでしょう。 一企業にとって重要なのは、人材の採用と企業への定着との兼ね合いです。労働時間を延ばすことで短期的なアウトプットは高まるかもしれませんが、長時間労働によって離職率が高まってしまっては本末転倒です。企業としては、これらのバランスを慎重に見極めながら判断していく必要があるでしょう。 デイリー新潮編集部